およそ最悪の人物にこのタイトルを取られたと歯ぎしりしたり、やりやがったよと呆れ返ったり、なんのこっちゃと目を白黒させたりしている三千世界津々浦々の皆様、どうもどうも、ヤマタカシです(笑顔)
まぁまぁいつもならここで、説教臭かったり長ったらしかったり胡散臭かったり特殊な表現を半ば強制的に読ませたりなどといった陰徳を積んでみたりするところだが、小山田圭吾の擁護というものがせめてもうちょっとなんだかんだと超長文をウォーブルめかしてそのグラジーやらヤーブルにボルシーアルトラしてもいいのだが…、うん、何の話だったっけ?
小山田圭吾いじめ問題
まずは「小山田圭吾いじめ問題」と言われている物をおさらいしておこう。
小山田圭吾は2021年夏、東京2020五輪大会開会式直前においてその参画が公表されると、その数十年前のインタビュー記事(「小山田圭吾2万字インタビュー」(1994年 ROCKIN’ON JAPAN)、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」(1995年 Quick Japan))等が問題視され炎上し、開会式直前に辞任した。
「小山田圭吾2万字インタビュー」には、食糞を強要しバックドロップをしたといういじめ(「小山田圭吾9月17日付け声明」にて食糞強要という部分に関しては犬の糞を自発的に食べようとした同級生に関する思い出を語ったと説明される)、緊縛した上での自慰強要(同9月17日声明にて傍観者という立場であったこと、また「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」にて実行犯は「渋カジ」という人物であると説明される)、そしていじめのアイディア提供という立場にあったという回想が掲載されていた。
また、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」においては、ダンボール箱に梱包し黒板消しの粉をかけるなどのいじめ(「小山田圭吾9月17日付け声明」にて反省が示される)、ロッカーに閉じ込め蹴飛ばすなどのいじめ、そして様々に差別的な表現を伴いながら某学園における小学校から高校までの思い出が語られる。
当時、小山田圭吾に対するバッシングというものは確かに有った。
小山田圭吾は五輪反対派の打算により燃やされた、そういう見方もひとつの事実だ。
同時に、東京2020五輪大会名誉総裁とは誰だったか、という事実もまた指摘されるべきだろう。
両側面から、さらには国民感情として、あるいは何らかの当事者として、誰それと名指しできない広い層からの批判が集まった。
この記事は、その経緯や、その是非を問うものではない。
その上で、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の正体について、少しだけ掘り下げてみようと思う。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」
●2月22日
*14時、大田出版で『QJ』赤田・北尾両氏と会う。いじめ対談のことを話す。「面白いね、やってよ。和光中学の名簿探してみるから。」―――まず、いじめられっ子を探すことにする。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 054p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の評価は、両極端に分かれると言っていいだろう。
障がい者に対しフラットな視線を持ちどんな人へも分け隔てなく接する町田の聖人(調布の超万引場所カーステ窃盗証拠隠滅失敗便所事件にて小沢健二の前に連座の過去有り)によるいじめ問題へと一石を投じる記事、あるいは残虐極まりない町田の極悪人によるいじめ賛美の記事。
しかしてこの記事の真意とは、そのどちらもが同時に存在するが、それを読者に選ばせるという自由意志を試す機能にこそあるのではないか。
なんのこっちゃと、そう思うのは当然だろう。
そのために今回の記事があるのだから。
まあ、あの面子が本当にそんなことまで考えながら「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を世に出したかと言えば、こんな珍説を垂れ流している私自身ですら正直なところでは噴飯ものの怪しさだ。
しかし、確かに、噴飯ものではあるのだが…、やはり誰かが、(自爆覚悟で)指摘しなければならない事だろう。
フィクションとノンフィクション
この「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は、インタビュー記事として書かれている。
不幸にも、フィクションとノンフィクションの狭間にて書かれてしまった。
ノンフィクションと言い切れないが、フィクションとも言い切れない。
そして、ノンフィクションとフィクションの狭間にて読まれてしまうだろう。
フィクションと言い切れないが、ノンフィクションとも言い切れない。
そんな曖昧さの上にある記事という印象は今も強い。
私自身は「小山田圭吾2万字インタビュー」、そして、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の正体を、話半分程度の商業的な創作物に近い性質を持った「失敗」記事であると認識している。
「この◯◯はフィクションです」
フィクションであることを示す、「この◯◯はフィクションです」という文言の始まりを追えば、三島由紀夫「宴のあと」裁判に行き着く。
三島は、日本で最初のプライバシーの侵害裁判の被告となった[1]。もの珍しさから、「プライバシーの侵害」という言葉は当時、流行語となった[16]。
1961年(昭和36年)3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、損害賠償100万円と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起こした[1]。主任弁護士は森長英三郎(田中伸尚『一粒の麦死して』参照)。
--- 宴のあと - Wikipedia
「フィクションである」という掲示の初出は、『宴のあと』連載最終回で「実在の人物とまぎらわしい面があり、ご迷惑をかけたむきもあるようですが、作品中の登場人物の行動、性格などは、すべてフィクションで、実在の人物とは何ら関係ありません」という“断り書き”を『中央公論』に掲載したものと思われる。
--- 宴のあと - Wikipedia
テレビドラマの終わりに「このドラマはフィクションであり・・・」というテロップが出ます。フィクションだと思わない人なんていないのに、どうして出しているのですか。
毎日放送の番組審議室に聞いてみると、「あれは『宴のあと』事件のころからでしょうか。プライバシーに関する論議が盛んになり、ドラマの最初もしくは最後に放送するようになりました」と明快な回答がありました。
--- テレビドラマの「このドラマはフィクションです」は、いつから? | Nicheee! [ニッチー!] | テレビリサーチ会社がお届けする情報サイト
現代においては、フィクションには「この◯◯はフィクションです」などの文言が付き、フィクションはフィクションであると説明される場合がほとんどだ。 また、どこまでがノンフィクションで、どこからがフィクションなのかを示したりと、フィクションとノンフィクションの線引をどこに置くかを受け手側に任せるという事例は少なくなりつつある。
95年前後の当時においても、フィクションを「フィクションである」とあえて明言する文化はあった(上記引用、毎日放送番組審議室~は1994年3月5日「毎日新聞大阪夕刊」掲載)。
そして、ノンフィクションにあえてこの文言をつけたり、フィクションにあえてこの文言を付けなかったりといった、様々な演出が横行している時代でもあった。 フィクションとしてでしか世に出せないとでも言いたげな「やばすぎる内容」を演出したり、フィクションであるがノンフィクションである事をにおわせる演出をしたりと、そういう曖昧さに鷹揚な時代だった。
そして、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」「小山田圭吾2万字インタビュー」記事中に、「この◯◯はフィクションです」などという文言はない。
当時の読者は、フィクションとノンフィクションの曖昧な境界を往来し、もしかして、まさか、いや、と、小山田圭吾とその露悪を共有することに暗い喜びを感じていたのではないか。
あるいはフィクションとして、エンターテイメント性を見出しつつ読んでいたか。
それともノンフィクションとして、何かしらの感情を高ぶらせつつ読んでいたか。
そして当時の書き手、そして語り手も、その境界を曖昧にすることの効果を、どこかでは自覚しながら両記事を世に出したのではないか。
内容が内容だ、今でこそ考えられない演出だと言えば、そうだろう。
しかし繰り返しになるが、そういう演出に対する鷹揚さが残る時代であった。
そうでなければ、両記事が掲載された時点で、スキャンダルとして週刊誌などで話題になっていたはずだ。
では何の保険も無く、それらがそれぞれ好き勝手に読まれるがままになっていたかと言えば、そうでもない。
「小山田圭吾2万字インタビュー」では、食糞強要や自慰強要といった描写(後に、犬の糞を自発的に食べようとした同級生の思い出を語ったこと、傍観者という立場であったことが説明される)の直後に、「だけど僕が直接やるわけじゃないんだよ。僕はアイディアを提供するだけで(笑)」と、ある種の「含み」を持たせているのだ。
では、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」にも、そのような「含み」があるのだろうか。
そして、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」がフィクションとノンフィクションの狭間にあるとしてそれは、どの程度フィクションで、どの程度ノンフィクションなのか。
養護学校
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」においては、某学園の近隣に、ダウン症児を多数、受け入れている養護学校の存在が示唆されている。
「他だったら特殊学級にいるような子が普通クラスにいたし。私立だから変わってて。僕、小学校の時からダウン症って言葉、知ってたもん。学校の裏に養護学校みたいなのがあるんですよ。町田の方の田舎だから、まだ畑とか残ってて。それで、高校の時とか、休み時間にみんなで外にタバコ吸いに行ったりするじゃないですか。(以下、茂木健一郎がマジギレしていた描写が含まれる部分を省略)」
この養護学校も、今は無いらしい。小山田さんが話しているのは、10年近く前の話だから、そういうこともあっておかしくない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 065p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
まず現地には、昭和35年から運営を続けている福祉系の団体がある。
この団体の施設は平成6年、(恐らくは知的障害児施設から知的障害者更生施設へ)児者転換を行っている。
そしてインタビューは1995年、平成7年に行われた。
その上で、記事内にある「この養護学校も、今は無いらしい」という発言に注目すれば、「この養護学校も、今は(当時と同じままでは)無いらしい」と読むこと(読ませること)が出来る。
当然、全く別の団体があったという可能性もある。
しかしよく考えていただきたい。
長い歴史を持った福祉団体というのは尊敬に値する存在であり、そもそも貴重だ。
そして小山田圭吾が言うように、残念ながら(当時の)町田は田舎だ。
現代においても、川崎町田交換論など言語道断と、神奈川県民にすら心底煙たがられているような魔境だ(個人の感想です)
そんなところに似た施設や団体が複数、存在していたなどと考えるほうが不自然ではないか。
当時の「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」編集サイドはこの養護学校を「無いらしい」で済ませ、取材・裏取りをしなかったのか。 裏取りをしていたとして、誤解を避けるために似た施設はあるが云々といった文言があってしかるべきではないのか。
それとも、本当に無くなっていたのだろうか。
…あるいは。
田園調布の「沢田(仮)」
「今近くまで来てるんですが……」田園調布でも有数の邸宅で、沢田さんと直接会うことができた。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 067p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を読んだ誰もがほぼ確実に、「沢田(仮)」と「小沢健二」から「沢田研二」を連想する。
それ自体は極めて自然な発想ではあるが、何の根拠も無い思いつき、あるいは偶然の産物、またはブラックジョークの類であると、誰にも語られる事無くいつのまにか忘れられる。
田園コロシアムと沢田研二
田園コロシアム(でんえんコロシアム)は、かつて東京都大田区田園調布二丁目31番に存在した多目的屋外スタジアムである。
--- 「田園コロシアム - Wikipedia」
田園調布駅下車徒歩3分という好立地にはかつて、田園コロシアムという施設があったようだ。
往時はさぞやという面影は現在「田コロ児童公園」に見ることができる。
そのネーミングから、当時の田園調布民は田園コロシアムをどう思っていたのかが透けて見えるようではあるが、まあそれはいい。
今回は、田園コロシアムでの沢田研二によるライブ(78年)に注目する。
これという確度の高い記録は無く、当時の証言と、そのライブを収録したと思われるカセットや、そのCD化(Kenji Sawada Julie Rockn Tour78 田園コロシアム・ライヴ!!|HMV&BOOKS online)の痕跡が今に残る。
田園調布にかつてあった田園コロシアムにて78年に行われた、沢田研二のライブ。
しかしそれが、小山田圭吾とどう繋がるのか。
――音楽の原体験はどんなものだったのですか?
小さいころはテレビっ子だったので、最初に親しんだのは、子ども番組やコマーシャルで流れていた音楽だったと思います。小学生になると「ザ・ベストテン」に夢中になりました。セットが凝っていたり地方や海外との中継をつないだり、それを生放送でやっていたのって、今考えるとすごいなぁ、と。
ほかにも「夜のヒットスタジオ」とか「紅白歌のベストテン」とか、歌番組は画面にかじりついて視ていました。抜群にかっこよかったのはジュリー(沢田研二さん)。歌はもちろん、あの時代に派手なファッションやメイクで、リアルタイムの洋楽のスタイルを取り入れていた。子どもの僕の目にも別格の存在として映っていましたね。
小学5年のころから、よく一緒に遊んでいた年上のいとこの影響で洋楽を聴くようになりました。そのいとこからもらった『ミュージックライフ』の古雑誌で、クイーン、キッス、ジャパンといったバンドを知りました。ちょうど「黎紅堂」や「You & I」といった貸しレコード屋ができ始めたころで、せっせと借りに通ったものです。
--- 「フリッパーズもそのあとも「流れ」だった コーネリアス 小山田圭吾(前編) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]」
小学5年で洋楽を聞き始めたというその前年(1969年早生まれは1978年当時、小学4年生)、後に自らの原体験として語る沢田研二が、田園コロシアムにてライブを行っていたということになる。
ところで田園コロシアムでの沢田研二のライブを収録したカセットには、「ヤマトより愛をこめて」(劇場用アニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のエンディングテーマ)という楽曲が収録されている。
さくらももこに「小山田君はヤマトが一番うまいね。」などと言わしめるほどの画伯ぶりを示したのは、なるほどこういう背景からだろうか。
これが推測の域を出ないことは言うまでもない。
しかし仮に、「沢田(仮)」という名前の着想を沢田研二から得たとして、後に自らの原体験であったと語る沢田研二を「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の文脈から言及してしまった事と、それに伴うであろう後悔は、小山田圭吾問題を取り扱う事の難しさを端的に表している。
掲載許可
沢田さんに電話してもお母さんが出た。電話だけだとラチが開かないので、アポなしでの最寄り駅から電話。「今近くまで来てるんですが……」田園調布でも有数の邸宅で、沢田さんと直接会うことができた。お母さんによれば、〝学習障害〟だという。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 067p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
「田園調布に住んでいる」「学習障害」といった個人情報が、無防備に誌面へと掲載されている。
当然、当時の感覚でも掲載許可を取る等、一定の配慮をして然るべきだろう。
―――対談してもらえませんか?
「(沈黙……お母さんの方を見る)」
―――……小山田さんとは、仲良かったですか?
「ウン」
数日後、お母さんから「対談はお断りする」という電話が来た。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 067p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
つまり、対談こそ断られたが、個人情報掲載の許可は得られたということだろうか。
前述の「今は無いとされた養護施設」、「田園調布の沢田(仮)」、そして「掲載許可」、…どうも不自然だ。
「田園調布の沢田(仮)」
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」において「(田園調布の)沢田(仮)」は、様々なエピソードと共に、強烈なキャラクターを伴いながら描かれた。
「その中で沢田って、その人たちからしてみれば、後輩なんだけど、体とかデカい、でも、おとなしいタイプなのね。フランケン・タイプっていうか。だけど怒らすと怖いって感じで。(略)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 061p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
大友克洋「童夢」(1980年~ 1983年単行本)には「藤山 良夫」(通称ヨッちゃん)という人物が登場する。
この「ヨッちゃん」と「(いじめ紀行での)沢田(仮)」、共通する所が妙に多い。
そして「フランケン・タイプ」、藤子不二雄Aによる「怪物くん」からフランケンを引けば、なるほど似ている。
しかし「沢田(仮)」に関し、指摘されておくべき事がある。
そもそも「沢田(仮)」は、(「渋カジ」が留年しくさった)中学を留年せずに卒業し、現役で高校へ進学し、高校も留年せずに卒業しているのだ。
当時の和光
「和光小学校における障害児と通常の子どもの「共同教育」実践の検証 : 卒業生への聞き取り調査による共同教育の評価を中心に」という論文と言っていいのか、和光学園の共同教育に関する文章がある。 和光に近いところによると思われるこれは、共同教育の特に実践初期を検証するという意図のもと書かれたようだ。
複数の卒業生へ聞き取りを行い、それを総括するという構成のもので、卒業できなかった生徒へこそ聞き取りを行うべきである点、そして結論ありきなのではと疑義の余地を残す総括など問題も見られるが、これにはまさに当事者の証言が記録されている。
(1)対象者:Eさん,32歳女性。和光幼稚園・和光小学校・和光中学校卒業。その後私立の高校へ進学。現在は,民間の福祉作業所においてクッキーやパウンドケーキの製造・販売の仕事。ダウン症の障害がある。愛の手帳4度。Eさん父親・母親もインタビュー調査に応じてくださった。文中のFは父親,Mは母親の発言である。
(2)調査日時:2003年12月27日(土)午後2時~6時
(中略)
高校の学力的レベルが和光とは全く違い,学力には自信のない生徒が多い。だから雰囲気的にも和光とはまったく違い,障害のある子の問題よりも普通の子どもの方が問題を抱えているような学校だった。本人も和光に入りたかったのだが,偏差値的に無理で諦めざるを得なかった。
(中略)
教室の黒板に明日の持ち物が書いてあるのですが,みんな書かずに帰ってしまうのですが,娘は丁寧に遅くまで残って書いてくるのです。そうすると友達から「明日の持ち物はなんだっけ?」とか電話がかかってきてね。のろいけど,確実にやるところが評価されてきたのですね。でも高学年になるとそれだけではやっていけないことになって,中学でも厳しくなって,和光高校へは点数が足りなくて進学できなかったのですけど。そこで丸木校長が,レベル的には低いけれど普通の高校を紹介してくれて,その高校へ一緒に行って紹介してくれたのです。周りの子どもにもいい影響を及ぼしているということで押してくださって。
--- 和光小学校における障害児と通常の子どもの「共同教育」実践の検証 : 卒業生への聞き取り調査による共同教育の評価を中心に 279-280p
Eさんは2003年の聞き取り時32歳、1971年生まれとして幼稚園は4歳(通常満3歳からだが特例として)からということは1975年の入園ということになる。
時期的には和光が共同教育を指向したその極めて初期に当たり、小学2年生の「沢田(仮)」の転入とほぼ同時期の入園だろう。
まず注目するべきは、少なくとも幼稚園・小学校が同時に、共同教育のもと生徒の受け入れを図っていたということだろう。
各学年それぞれに受け入れていたと考えるのが妥当だ。
次に注目するべきは、(当時の)和光高校への進学において学力が明確に求められている点だ。
沢田(仮)が高校進学を迎えるまでの6年の間、高校進学の基準として学力を求めるという指針は、沢田(仮)よりも上の学年における経験をもとに検討されていた可能性が高い。
そしてその指針がどれほどの実効性を伴っていたか、長谷川(仮)、村田(仮)、渋カジ、それぞれ理由こそ不明ではあるが和光高校へは進まず、そして少なくともEさんは、学力を理由として和光高校への進学を断念している。
「沢田(仮)」と沢田(仮)、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」で描かれた「沢田(仮)」と実際の沢田(仮)、もはや別人とでも言うべきほどの乖離が、そこにあるのではないか。
太鼓クラブの特異性
沢田(仮)は高校へ進学する学力を持ち、留年すること無く卒業した。
しかし(小学生時代の)太鼓クラブにおいては「実験の対象」となってしまっていた。
それで太鼓クラブに入ったんですけど、するとなぜか沢田が太鼓クラブにいたんですよ(笑)。本格的な付き合いはそれからなんですけど、太鼓クラブって、もう人数五人ぐらいしかいないんですよ、学年で。野球部とかサッカー部とかがやっぱ人気で、そういうのは先生がついて指導とかするんだけど、太鼓クラブって五人しかいないから、先生とか手が回らないからさ、『五人で勝手にやってくれ』っていう感じになっちゃって。それで音楽室の横にある狭い教室においやられて、そこで二時間、五人で過ごさなきゃならなかった。五人でいても、太鼓なんか叩きゃしなくって、ただずっと遊んでるだけなんだけど。そういう時に五人の中に一人沢田っていうのがいると、やっぱりかなり実験の対象になっちゃうんですよね」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 056-057p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
これは局所的なダンピングとでも言うべき事例であり、学園側にとっては盲点であったと言ってもいいだろう。
しかし裏を返せば、「教師がいなくとも問題は起こらないだろう」と思われていたのではないか、という事が見えてくる。
「小学校時代の小山田くんがいたから先生も安心したのだろう。小山田くんえらい!」
そう思った読者が仮にいるとすれば、私から「お前の頭にはクソ以外詰まってないのか?」という定型句を送らせていただこう。
そもそも太鼓クラブのくせに太鼓すら叩きゃしなかった小山田圭吾に何を期待しているのか。
ウチの学校って、音楽の時間に民族舞踊みたいなやつとか、『サンサ踊り』とか、何かそういう凄い難しい踊りを取り入れてて。僕、踊り踊るのがヤだったの、すごく。それで踊らなくていいようにするには、太鼓叩くしかなかったの。クラスで三人とか四人ぐらいしか太鼓叩く奴はいなくて、後は全員、踊らなきゃいけないってやつで。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 056p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
ちなみに私は、沢田(仮)が明確な意図を持った上で太鼓クラブを選んだと考えている。
というよりも、太鼓クラブを選択する理由は、踊りたくないからという消極的動機以外存在しないと断言してもいい。
学園生活を有意義に過ごすための小山田圭吾からの豆知識だ。
漢字に関する博識と、(卒業後は)書道や陶芸の教室へ通っているという選択の渋さ、卒業時に「ボランティアをやりたい」と語り、「おまえ、ボランティアされる側だろ」と無下に扱われた沢田(仮)がサンサ踊りとやらを選択するに甘んじるとはどうも考えづらい。
ちなみに4月現在、「2022ミスさんさ踊り」の一般公募が行われているようだ。
5月14日(土) 「プラザおでって」で行われた2次選考会の結果、以下の 5名の方々が今年度の「ミスさんさ踊り」に選ばれました!
--- 「2022ミスさんさ踊り | 楽しむ|盛岡さんさ踊り 公式ホームページ」
…太鼓、叩いてるわな。
「魔太郎が来る!!」の意味
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載された雑誌の表紙で小山田圭吾は、「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」第5巻を構えている。
この「魔太郎が来る!!」に込められた意味とは何なのか。
仮に、自身が如何に「魔太郎が来る!!」が好きで、如何に熱烈なファンであるかという事を示すにふさわしいのはむしろ、コーネリアスの惑星見学にて藤子不二雄Aのサインをもらった「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」第12巻だろう。
藤子不二雄Aは本作について『自分がいじめられっ子だったこともあるのですが、いじめられっ子が実は凄く強くて、やられた相手に大逆襲するような作品なら面白いだろうと思ったのが本作の出発点です』と語っているように、全国のいじめられっ子のうっぷんを代弁し、それを豪快に晴らしていくカタルシスに満ちた作品である。
--- 魔太郎がくる!! - Wikipedia
いつかこの記事によっていじめっ子小山田圭吾は… という意味を含めたかったとして、藤子不二雄Aのその思想が背景にあることを強調するためにもやはり12巻がふさわしいはずだ。
12巻ではなくあえての5巻、その真意はどこにあるのか。
ところで、「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」第5巻には、「恐怖!!応援ダイコ」という話が収録されている(魔太郎がくる!! - Wikipedia)。
「恐怖!! 応援ダイコ」
「魔太郎が来る!!」の単行本は出版社や年代ごとにいくつかバリエーションが存在する。 問題となる「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」で小山田圭吾が構えていたものは、「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」の第5巻だ。 私が所有する単行本は「藤子不二雄Aランド 新編集 魔太郎が来る!!」、残念ながら「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」ではない。 藤子不二雄ランド版と藤子不二雄Aランド版が同じかと問われれば、描写の自粛などはあるかも知れないが、大筋は違わないだろうというところだ。 Wikiではうらみの61番となっているが恐らくは単行本収録時の掲載順の問題だろう。
「恐怖!! 応援ダイコ」、内容を追いかけてみよう。
話は、応援団が駅のホームにて応援団長を出迎えるというシーンから始まる。
不幸にも魔太郎が太鼓に躓き、間一髪の事体となり、応援団員はその責を問われ粛清される。
それを根に持った応援団員は、魔太郎を探し出し報復する。
さらにその復讐として魔太郎は、応援団の太鼓を程よく破壊し、簡易な修繕を施す。
その太鼓を使用すれば当然、再び壊れるのだが、応援団員がその場で壊したようにしか見えず、結果、応援団員は再び粛清される。
そして、小山田圭吾は…、太鼓クラブに在籍していた。
…そういう事だろうか。
小山田圭吾、恐ろしい子…!と例の画像を貼りたくなるがあれはネットミームの一種と言っていいだろう、実際は月影千草のセリフだ。
このまま話を進めたいところだが、(残念ながら)「恐怖!! 応援ダイコ」が掲載されたのは昭和48年(1973年)だ。
昭和56年(1981年)の時点で小山田圭吾は小学6年生であり、考えるまでもなく自ずと答えは限られて来る。
では単行本か、発刊年を当たってみよう。
単行本
藤子不二雄ランド「新編集 魔太郎がくる!!」全14巻、中央公論社、1987年-1988年
(中略)
藤子不二雄Aランド「新編集 魔太郎がくる!!」全14巻、ブッキング、2004年-2005年
--- 魔太郎がくる!! - Wikipedia
このどちらも小山田圭吾が太鼓クラブに在籍していたと思われる1981年近辺から外れる。
【今月のピックアップ】盛岡さんさ踊り | 取り組み紹介 | beyond2020プログラムより
つまりは、そんな深い意味などはなく、さんさ踊りでの太鼓と、この応援団員が抱えた太鼓、どこか似ているねという事を言いたいのだろうか。
チャンピオンコミックス「魔太郎がくる!!」全13巻、秋田書店、1973年-1975年
--- 魔太郎がくる!! - Wikipedia
…ん?
なぜ、「魔太郎が来る!!」だったのか。
そしてなぜ、「恐怖!! 応援ダイコ」が収録された第5巻だったのか。
それは当事者にしかわからないことだろう。
…が、小山田圭吾にとって「太鼓クラブ」もまた原体験のひとつであったという事なのだろうか。
年賀状
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」には、「沢田(仮)が小山田圭吾へ送った(とされる)年賀状」が掲載されている。
当時の感覚で言っても、あの内容を伴いながら「年賀状」を掲載するという行為は、異質であり「特殊」な表現であると言って良いはずだ。
しかし実は、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」においては、あれが「沢田(仮)から小山田圭吾に送られた年賀状」であるとは一言たりとも書かれていない。
では、なぜあれが「沢田(仮)から小山田圭吾に送られた年賀状」であるとされているのか。
沢田からの年賀状
「肉体的にいじめてたってのは、小学生ぐらいで、もう中高ぐらいになると、いじめはしないんだけど……どっちかって言うと仲良かったっていう感じで、いじめっていうよりも、僕は沢田のファンになっちゃってたから。
(略)
それで、年賀状とか来たんですよ、毎年。あんまりこいつ、人に年賀状とか出さないんだけど、僕の所には何か出すんですよ(笑)。で、僕は出してなかったんだけど、でも来ると、ハガキに何かお母さんが、こう、線を定規で引いて、そこに『明けましておめでとう』とか『今年もよろしく』とか鉛筆で書いてあって、スゲェ汚い字で(笑)」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 057-058p 中段注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
そして、卒業式当日の沢田君と小山田さんのエピソードが披露され、記事本文は終わります。最後に、沢田君が小山田さんに送った年賀状の実物が掲載されています。
北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた?」
記事の最終ページに掲載された「沢田君」からの小学生時代の年賀状の意味も、〝今にして思えば〟イジメでしかなかった当時の関係を小山田氏なりに反省していて、今でも年賀状をちゃんと取ってあるように主観的にはこの頃からずっと「友達」のつもりでいたんだけど、そう受け取ってはもらえなかったかもしれん、すまん、の意味でしょう。もちろんそれがほとんど伝わらないわけですが、村上氏の地の文のせいで。
外山恒一「小山田圭吾問題の最終的解決」
また原文記事の最終頁に小山田さんの同級生だったSさん(仮名)の年賀状が掲載されていますが、これも当初から「晒して馬鹿にする」という意図は全くなく、元記事全文の様々な文脈を経て終盤で語られる、Sさんと小山田さんの間にあった不思議な交流、友情の挿話に即して掲載されたものです。
村上清「1995年執筆記事「いじめ紀行」に関しまして」
そう「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」では、「沢田(仮)」から年賀状が来た事が語られ、そしてその「年賀状」と「思わしきもの」が掲載されているにすぎず、「沢田(仮)からの年賀状」であると実質的に「断定」されたのは炎上後なのである。
この「年賀状」、まともに検証されたことがあっただろうか。
「年賀状」
年賀状に書かれた内容は簡潔だ。
明けましておめでとうございます。
手紙ありがとう。
三学期も頑張ろう。
昭和五六年元旦
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 072p 中段注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
1981年元旦、中学校への進学を控えた小学6年生(1969年早生まれは1981年4月に中学校入学)当時の「年賀状」、ということになるだろうか。
その彼とは中学ではほとんど接点がなく、高校に入り同じクラスになって再会してからは、会話をする機会も増え、手紙や年賀状のやり取りをするなど、自分にとっては友人の一人でした。
--- 9月17日 小山田圭吾 【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】
昭和五六年(1981年)元旦、小山田圭吾はその当時小学六年生だが…。
むらかみ・きよし●一九七一年兵庫生。ミニコミ『月刊ブラシ』編集人。池袋で世界のタバコを売りつつ、数々のインタビューを行う。コピー機が好き。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 071p 注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
コピー機が好き。まあ個人の趣味嗜好にとやかく言うつもりはない。
…が、この「年賀状」の「正体」、一体何なのか。
「頑張る」
まずは「頑張ろう」の「頑」に注目したい。
そう、よく見みると「が(か)」と書いた上から、「頑」の文字が書かれているのだ。
書き直した、ということか。
そもそも小学六年生は「頑張る」と書けるのだろうか。
「小学校学習指導要領 昭和52年7月告示」、「第1節 国 語」の中に「頑」は無い。
移行期間を考慮し、前回改訂である「小学校学習指導要領 昭和43年7月告示」、「第1節 国 語」を見てもやはり無い。
では中学校で習うのかと言えば、中学校で習う漢字はそもそも指定されていない。
(2) 漢字に関する次の事項について指導する。
ア 第1学年で学習した当用漢字の読みに慣れ,更にその他の当用漢字を300字ぐらいから350字ぐらいまで読むこと。
イ 学年別漢字配当表の漢字を主として,1,000字程度の漢字を書くこと。なお,それ以外に上記アで学習した当用漢字についても,必要な場合,適切に用いるように努めること。
--- 「中学校学習指導要領」、「第1節 国 語」
どういう事だろうか。
「頑張ろう」と漢字で書けない事は、恥ではない。
母親が手直しをしたのだとしても、「が」と書き始めた事を尊重し、平仮名で続けるのが自然な流れではないか。
では「がんばろう」と書き出したがやはり、「頑張ろう」と漢字で書こうと思い直した、という事だろうか。
漢字を無茶苦茶知っていたと語られた「沢田(仮)」という人物像からは想像し難い書き損じだ。
そもそも昭和56年当時、小学6年生が年賀状を書くとして、書き直すことが出来ないペンなどを用いるだろうか。
…どうも不自然だ。
筆跡
改めて筆跡に着目しながら「年賀状」を見てみよう。
一行目の「明けましておめ」まで、強い筆圧で、全身に力をこめながら書いているような筆跡だ。
フェルトペンだろうか、この筆圧をかける事が出来る筆記具は限られているだろう。
(「明けましておめ」に)続く「で」を見てみよう。
力のこもったそれまでとは対照的に、流れるような筆使いだ。
達筆かどうかは判断しかねるが、少なくともそれまでの筆使いとは対称的と言っていいだろう。
(「明けましておめで」に)続く「とうござい」ではわざと投げやりに、無気力な様子の筆使いになっている。
これはボールペンだろうか、それまでと明らかに文字の太さが違う。
(「明けましておめでとうござい」に)続く「ます。」、勢いと流れを感じる筆跡だ。
特に「す。」を詳しく見てみよう。
文字を早く書くことを意識した、かなり特殊な書き方をしているよう私には見えた。
そして「手紙ありがとう。」、「明けましておめ」の筆跡と似た印象を持つが、筆圧は明らかに弱くなっている。
特に「紙」、筆運び自体はとてもスムーズでトメ・ハネ・ハライ、いずれも出来ている割にどうにも不自然な投げやりさが鼻につく。
「昭」、漢字を書きなれている筆使いの割に、字自体は評価が分かれるところだ。
というより母親が書いたものだとすれば、常識的に考えてさすがにもうちょっと丁寧に書くだろう。
「元旦」、これは達筆と言っていいだろう。 「旦」などは口をへの字とした顔のようにすら見える。「で」を彷彿とさせる筆使いだ。
さてこのように「年賀状」の筆跡を詳細に見ていくと、ある疑念が沸かないだろうか。
これは、沢田(仮)、あるいは沢田(仮)と母親が書いたものなのか、と。
そして、所々に感じる妙な達筆さ、わざとくずして書いたような筆跡。
…どういうことなのか。
縦線
で、僕は出してなかったんだけど、でも来ると、ハガキに何かお母さんが、こう、線を定規で引いて、そこに『明けましておめでとう』とか『今年もよろしく』とか鉛筆で書いてあって、スゲェ汚い字で(笑)」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 057-058p 中段注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
まずは「沢田(仮)」の「母親」が書いたという線に着目してみよう。
線の始まりは左にいくほど下がってはいるが概ね揃っている。
それに対し、線の終わりはどうだろうか。
3本目が特に短い。
そして、3行目の文章もまた短い。
線を引く意図は、文字を整列させるとか、文字の大きさを揃える、といったところにあるはずだ。
つまり文字を書く前に、縦線は引かれていて然るべきなのだ。
それがなぜ、文章の長さと一致するのか。
では、予め考えられた文章をもとに線の長さを決めた上で、線を引いたのか。
それでは「明けましておめでとう」「ございます。」の間で、線の長さが同じであることの説明がつかない。
「明けまして」「おめでとうございます。」とする予定であったとしても、それは同じだ。
ちなみにこの線を、「後から描かれたもの」だと考えれば、何の不思議もないことは言うまでもない。
…掲載許可だのなんだの必要の無いやり方が、あるにはある。
誰もが一度はそう考えるが、まさかなと刹那にその考えを捨てる例のヤツだ。
こう恣意的に誘導したこの疑念は、あくまで私の推測に過ぎず、あらゆる証拠は存在しないということをくれぐれも忘れないで頂きたい。
…しかし、だ。
トリコじかけの明け暮れ
私つまり「ヤマタカシ」が、この「年賀状」の「正体」とはと問われれば、「トリコじかけの明け暮れ」であると答えるだろう。
「でも、やるんだよ」っていうのは、特殊漫画家と呼ばれてる根本敬さんのすごい好きな本があって。『因果鉄道の夜』っていうんですけど。
--- 月刊カドカワ12月号 020p 総力特集 cornelius 5つめのシーズン 「でも、やるんだよ」魂でぶっとばせ!
まず前提として、当時の小山田圭吾の発言からは、根本敬への心酔が読み取れる。
この「トリコじかけの明け暮れ」として語られる一連の怪文書は、90年代に「湊○子」により頒布された一種のアジビラに類する怪文書で、根本敬的な文脈において非常に大きな意味を持つ。
ここでの詳しい言及は避けるが現代でも、積極的に見ようとすれば、より高精細な写真等を見つけることが出来る。
では改めて「年賀状」と「トリコじかけの明け暮れ」(画質の観点から村崎百郎「電波系」掲載のものを採用)を並べてみよう。
妙な達筆、文章に合わせた縦線、左下へ傾いていく書き出し、そして全体的な雰囲気の酷似。
ここで引用した「トリコじかけの明け暮れ」にある「1995年」に注目していただきたい。
このビラ自体は、根本敬「人生解毒波止場」(1995年)においても、某月某日「湊○子」新作として紹介されている(227-228p)。
そして、同1995年当時のクイック・ジャパン編集部では、「どうだった」のだろうか。
私が何を言いたいのか、もうあえて言う必要はないだろうが、くれぐれもこれは陰謀論に浸かり尽くしたただの推測でしか無いことは忘れないでいただきたい。
…しかしなぜ昭和五六年なのか。
「1981年」
ジャニスのオープンは1981年9月21日。運営は「有限会社とちの木」で、創業者は鈴木健治氏(鈴木氏が2016年9月17日に逝去したあとは、共同オーナーの相馬博光氏が代表を務めている)。
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特に1990年代に“渋谷系”と呼ばれることになるバンドのメンバーたちが、ジャニスに通っていたのは有名な話である。1987年頃、当時高校生だった小沢健二と小山田圭吾の2人が、毎週末にジャニスに行って30枚ほど借り、土日をかけてカセットテープにダビングして、月曜日に返しに行っていた、という話は2人が何度か語っているエピソードだ(ジャニスは2泊3日が基本だが金曜だけ3泊4日で借りられるようになった)。1989年にデビューし、豊富な音楽知識とセンスで一世風靡したフリッパーズ・ギターの背景にジャニスのマニアックな品揃えが貢献したのは間違いない。
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ジャニス、1981年オープンのそれは、小山田圭吾にとっての原体験とも言える存在だろう。
生誕100年を迎えた娯楽小説の大家、山田風太郎。奇想天外なアイデアと強烈なキャラクターが登場する作品は、数多く映像化されてきた。
その代表作といえば、「魔界転生」だ。1981年の深作欣二監督作では、島原の乱で蜂起した民とともに虐殺された天草四郎(沢田研二)が悪魔の力を借りて蘇り、細川ガラシャ(佳那晃子)、伊賀の霧丸(真田広之)、宮本武蔵(緒形拳)ら、生前やり残したことのある者たちの霊を呼び出し復活させる。
--- 【妖気!怪奇!山田風太郎 怪異の世界】沢田研二の天草四郎に女性ファン殺到、奇想天外なアイデアと強烈なキャラクターが登場する 「魔界転生」 - zakzak:夕刊フジ公式サイト
あるいは原体験としての沢田研二を思いながら、昭和五六年(1981年)としたのか。
『月刊漫画ガロ』1981年9月号掲載「青春むせび泣き」で漫画家デビュー。
根本敬 - Wikipedia
…なぜ私がこんな事を指摘しなければならないのか。
これは一体何の、そして誰の因果なのだろうか。
そもそも私は「村上隆」と「根本敬」と「杉山知之」の区別がよく付いていない。
んな馬鹿なと思うだろうか。
ではぜひ「村上隆」「根本敬」「杉山知之」とそれぞれ画像検索でもしてみてほしい。
そして1981年は、国際障害者年だったりする。
ついでに、黒柳徹子「窓ぎわのトットちゃん」が講談社から出版された年だったりもする。
…。
そもそも小山田圭吾が「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」で、あのろくでもない内容を語らなければ私もまた、こんなところでこんな事を懇切丁寧に指摘するなどというこれは一体何の慈善事業かといった趣をすら醸し出す陰徳を積むことも無かったはずだ。
でもやるんだよどころの話ではない。最悪のババを掴まさせられた気分だ。
でも、やるんだよ!
作られた「残酷」
因果因業のその果てに、どうやら「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」というものの「正体」が垣間見えてきたようだ。
さらにもう少し、掘り下げてみよう。
以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 064p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
ここで疑問が生じる。一体、何を笑っているのだろうかという点だ。
いじめそのもの、「沢田(仮)」を段ボール箱に詰めて黒板消しで毒ガス攻撃をした事や、「村田(仮)」をロッカーに詰めてみんなでガンガン蹴飛ばした事を、笑っているのだろうか。
それとも、転校初日に○○○したり週一で○○○漏らしたり○○○がデカかったり○○○丸出しでウロウロしたりしていた「沢田(仮)」や、頭をコリコリ掻きつつ髪を抜いて10円ハゲみたくなっちゃってルックス的に凄かった「村田(仮)」を、笑っているのだろうか。
あるいは、転校初日に○○○したり週一で○○○漏らしたり○○○がデカかったり○○○丸出しでウロウロしたりしていた「沢田(仮)」を段ボール箱に詰めて黒板消しで毒ガス攻撃をした事や、頭をコリコリ掻きつつ髪を抜いて10円ハゲみたくなっちゃってルックス的に凄かった「村田(仮)」をロッカーに詰めてみんなでガンガン蹴飛ばした事を笑っているのだろうか。
そもそも「残酷」とは、どういう意味なのだろうか。
「沢田(仮)」や「村田(仮)」のような「かわいそうな(とされる)人」が「いじめられた」から「残酷」だ、という意味なのか。
仮に「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」に、あらゆる特殊な描写の一切がなかったとしよう。
淡々といじめの描写が続くだけ、それはまさに、村上清の言う安心できる教科書的記事とでも言うべき仕上がりになってしまうのだろうか。
しかし少なくともそれが、商業的には失敗するであろうことは明らかだ。
この「かわいそうな(とされる)人」への「残酷」という前提は、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」という記事が「商業的に」成立するため必要なものだったと、私は考えている。
それを、誰が望んだのか。
『夕刊フジ』の地下鉄サリン事件増刊号
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年(平成7年)3月20日に東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件(ちかてつえきこうないどくぶつしようたすうさつじんじけん)[2]。日本国外では「英: Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある[3]。世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。
--- 地下鉄サリン事件 - Wikipedia
3月の後半になると毎年、地下鉄サリン事件の特集032001 032002 032003 032004 032005が組まれる。
地下鉄サリン事件は未だ、終わっていない。
●4月2日
とにかく事務所に乗り込む。『QJ』赤田氏と僕とで、まずマネージャー岡氏を説得しなければならない。と思っていたら、「本人きますよ」
20分後、『夕刊フジ』の地下鉄サリン事件増刊号を小脇にかかえながら、コーネリアスはいきなり目の前に現れた。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 055p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」のインタビューは、95年4月2日に行われたらしい。
「『夕刊フジ』の地下鉄サリン事件増刊号」とは「サリン事件 緊急 全報告 夕刊フジ緊急増刊 1995年4月6日号」を指すのだろう。これは95年4月1日発行だ。「夕刊フジ」の「増刊号」とは新聞なのか雑誌なのか、発行日に関するややこしい慣習を加味しても一応の辻褄はあっている。
副題
毒ガス攻撃
(中略)
「段ボールの中に閉じ込めることの進化形で、掃除ロッカーの中に入れて、ふたを下にして倒すと出られないんですよ。(中略)それはでも、小学校の時の実験精神が生かされてて。密室ものとして。あと黒板消しはやっぱ必需品として。〝毒ガスもの〟として(笑)」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 062p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
小山田圭吾は「あと黒板消しはやっぱ必需品として。〝毒ガスもの〟として(笑)」と言及してはいるが、「村田(仮)」へ「(黒板消しによる)毒ガス攻撃」が行われたという具体的な描写はない。
そして本来、「毒ガス攻撃」は、「沢田(仮)」に対して行われたものだ。
にも関わらず、062pの副題は「毒ガス攻撃」となっている。
「地下鉄サリン事件増刊号」を小脇にかかえながら現れ、「密室もの」「毒ガスもの」と強調し、「毒ガス攻撃」と副題をつけるこの演出は、なぜ必要とされたのか。
Quick Japan 3号
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載された「Quick Japan 3号」の目次を見てみよう。
【FUTURES】
全力特集 ぼくたちのハルマゲドン
マンガで読む、“最終戦争”完全カタログ
◆『マンガ家とハルマゲドン』
interview……永井 豪・楳図かずお・しりあがり寿
◆竹熊健太郎:『おたくとハルマゲドン』
「なぜおれはオウム真理教に入信しなかったか」
◆古川益三:『マンガとオウム』
「うわべだけで生きておると、やがてひっくり返る時がくるぞ!」
◆古賀 学(Pepper Shop):『フレームの中のフレームの中のリアル』
Interview……予言脚本家・伊藤和典
◆米沢嘉博:『なぜ“最終戦争”なのか?』
including……ハルマゲドン・マンガの50年史(年表&作品リスト)【REGULARS】
◆強力企画 新連載・村上 清の“いじめ紀行”
第1回ゲスト・小山田圭吾(コーネリアス)「学校でウンコするとかっていうのは、小学生にとって重罪じゃないですか?」
◆中森明夫:トンガリキッズ・ニュースVOL.3『TOKYO GOCCO!』
「ぼくたちには額縁が必要なんだ」
◆大泉実成:消えたマンガ家 第2回
『“人間時計”はどこに…!? 幻のマンガ家・徳南晴一郎を追って』【COMIC】
井上三太:新連載!!『Born 2 Die』【DEPARTMENTS】
クイック・ジャーナル
偽取材者、D君の奇妙な肖像を追う/“BIKKE”(TOKYO No.1 SOUL SET)インタビュー』/伊豆レイヴ完全ルポ/オランダサブカル雑誌『HYPE』/制服向上委員会/松永豊和インタビュー/路上全裸事件顛末記/東京グラフィティ・シーン/淡路島で紙芝居の墓場を見た!/テクノ・レボリューション/女子高生テクノ日記/オウム“追っかけ”少女
--- QuickJapan vol.03 - QJ 100th ISSUE ANNIVERSARY
地下鉄サリン事件は、オウム真理教によるハルマゲドン予行だとする説がある。
「全力特集 ぼくたちのハルマゲドン」、QuickJapan3号は実質的に、オウム真理教そして地下鉄サリン事件特集号であったと言っていいだろう。
○○○だの○○○ーだの○○○がデッカいだの○○○丸出しでウロウロしていただのはともかくとして、夕刊フジの地下鉄サリン事件増刊号を小脇に抱えながら現れ、密室だの毒ガスだのと語ったのは、編集側の意向という側面があったのかもしれない。
ところで「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」誌面キャプチャーの最終ページにチラ見えしていた謎の漫画「まどの一哉 漂泊」の文字が見当たらないが、太田出版にとってあれは黒歴史扱いなのだろうか(「まどの一哉 掌編選集「夜の集い」 - タコシェオンラインショップ」にて販売中)。
「打ち合わせ」
「小山田圭吾2万字インタビュー」において問題視されている、小山田圭吾と山崎洋一郎のろくでもないやり取りを思い出してみよう。
山崎洋一郎がなぜか所々キレ気味なのが醍醐味だろうとか、そういう事を言いたいのではない。
発言量の偏りはあるとしても、発言のやり取りになっている「小山田圭吾2万字インタビュー」はまぎれもなくインタビューだ。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は前後半で、その性質を大きく変えている。
まずは後半に注目しよう。
―――やっぱ、できることなら会わないで済ましたい?
「僕が? 村田とは別に、あんま会いたいとは思わないけど。会ったら会ったでおもしろいかなとは思う。沢田に会いたいな、僕」
―――特に顔も会わせたくないっていう人は、いない訳ですね?
「どうなんだろうなあ? これって、僕って、いじめてる方なのかなあ?」
―――その区別って曖昧です。
「だから自分じゃ分かんないっていうか。『これは果たしていじめなのか?』っていう。確かにヒドイことはしたし」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 068p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
なぜか村上清も所々キレ気味なのが醍醐味だろうとか、そういう事をいいたいわけではない。
この発言のやりとりは紛れもなく、インタビューとして成立しているといっていいはずだ。
では、前半は。
それが、誌面に掲載された小山田さんの発言の数々(いじめ自慢パート)です。
ただ、冷静に考えると、この時の話は《打ち合わせ》です。小山田さんへの《インタビュー》ではありません。
--- 北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」
北尾修一はこの前半を、「打ち合わせ」と表現した。
改めて誌面前半を読めば、ほぼ小山田圭吾の発言で構成されている。
「」にて括られる発言、それぞれの分量がまず多く、独白と言っても過言ではない。
北尾修一の言う通り、少なくとも通常の「インタビュー」ではなさそうだ。
当然、小山田圭吾が、ヤバいことをノリノリでただひたすらに喋り続けていた可能性もある。
しかし、行間に、「何かしらの合いの手」が入ったと考えるほうが自然だ。
そして話は小山田圭吾のこの発言へ戻る。
「それはでも、小学校の時の実験精神が生かされてて。密室ものとして。あと黒板消しはやっぱ必需品として。〝毒ガスもの〟として(笑)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 062p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
「(地下鉄サリン事件がテーマなら、)密室ものとして、毒ガスものとして、こういう描写があったらどうだろうか」
…つまりこういう事だったのだろうか?
共同作業
小山田さんがM氏に、「《打ち合わせ》の時にふたりで話した内容を《インタビュー》ということで記事にしていいよ」と後日許可したからです。
でも、これって変ですよね?
北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」
でも、これって変ですよね?
●4月2日
とにかく事務所に乗り込む。『QJ』赤田氏と僕とで、まずマネージャー岡氏を説得しなければならない。と思っていたら、「本人きますよ」
20分後、『夕刊フジ』の地下鉄サリン事件増刊号を小脇にかかえながら、コーネリアスはいきなり目の前に現れた。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 055p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 064p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
おそらく、念のため打ち合わせを録音していたのでしょう。
--- 北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」
…ん?
………しかしあの面子が、あの誌面をあのままに、どう読まれようが構わないと思いつつ世に放ったかと言えば、どうも少し違うようだ。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」「カドカワ」に共通して見られる「ある描写」に注目しながら、さらにもう少し掘り下げてみよう。
「牛乳瓶で殴られる」
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の中には、異質な描写がある。
牛乳瓶とか持ち出してさ、追っかけて来たりとかするんですよ。
(中略)
牛乳瓶とかで殴られたりするとめちゃめちゃ痛いじゃないですか、で、普通の奴とか牛乳瓶でまさか殴れないけど、こいつとか平気でやるのね。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 056p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」におけるインタビューにおいて小山田圭吾は極めて早い段階で、「牛乳瓶で殴られる」という描写を強調しつつ語った。
小山田圭吾が小学生時代の昭和50年代、確かに給食では牛乳瓶が使われていただろう。
牛乳びんは、一升びんやビールびんとともにリターナブルびんの代表的な存在ですが、その需要は昭和30年代に紙パックが登場して以来、年々減少しています。
--- びんの3R通信 vol.29
農林水産省などによると、給食用牛乳の容器は1970年度には89%が瓶だった。しかし、乳業メーカーが本格的に紙パック牛乳の製造を始めて以降、給食でも普及し、80年代に逆転。
--- 消えゆく給食の瓶牛乳、風前のともしび…全国8割超が紙パック | ヨミドクター(読売新聞)
基本的にはガラス製品である牛乳瓶は原則、回収されるはずだ。
では何かしらの流用が常態化しており、教室中に溢れかえっていたのだろうかと思い、昭和期の文房具というものを当たっても、すでにプラ製品へと移行している(昭和の文房具は面白いものが多かった!人気のあった文房具特集)。
牛乳瓶という凶器の入手性、利便性を考えると、どうも不自然な感じがしないだろか。
そして、牛乳瓶を持って追いかけてきたり、牛乳瓶で殴られたりというのは、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の文脈で言う所の「面白い」描写なのだろうか。
ウンコとか持ち出してさ、追っかけて来たりとかするんですよ。
(中略)
ウンコとかで殴られたりすると(心が)めちゃめちゃ痛いじゃないですか、で、普通の奴とかウンコでまさか殴れないけど、こいつとか平気でやるのね。
--- 「いじめ紀行 ヤマタカシの巻」 056p (村田某(仮)、『Rapid Japan 第3号』1995年 多田出版)
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の文脈で考えるならば、むしろふさわしいのは「ウンコ」だろう(残念ながらそういう内容です)。
…どうも不自然だ。
時計じかけのオレンジ
牛乳瓶で殴られるという描写の答えは、意外な所にある。
「時計じかけのオレンジ」、アレックスという超暴力の変遷を描く作品だ。
『時計じかけのオレンジ』(とけいじかけのオレンジ、A Clockwork Orange)は、アンソニー・バージェスが1962年に発表した同名の小説を原作とする1971年公開の映画。スタンリー・キューブリック監督。
--- 時計じかけのオレンジ - Wikipedia
『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange)は、イギリスの作家、アンソニー・バージェスが1962年に発表したディストピア小説。1971年にスタンリー・キューブリックによって映画化された。
--- 時計じかけのオレンジ (小説) - Wikipedia
これは、映画版「時計じかけのオレンジ」において、物語の転機となる重要なシーンだ。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」に関わったあの面子が、「時計じかけのオレンジ」を見ていない訳がない。
そして当然、「時計じかけのオレンジ」を読んでいない訳がない。
独白
小説版「時計じかけのオレンジ」は主人公である超暴力の申し子アレックスによる独白という視点に立っている。 映画版にしても、映像化するという前提から第三者的な視点になってはいるが、要所にアレックスの独白が挟まれる。
そして「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」はどうだろうか。
特に前半部分、小山田圭吾による独白という印象は、強い。
95年当時の小説版「時計じかけのオレンジ」
日本で本書がはじめて翻訳されたのは一九七一年だが、この当時は最終章のない版しか流通していなかった。そのためハヤカワ文庫旧版には最終章のないバージョンが収録されていた。
一方で一九八〇年に刊行された<アントニイ・バージェス選集>版では、バージェスの当初の意図を組んで最終章が収録されている。
--- 「時計じかけのオレンジ[完全版]」 317p (アントニイ・バージェス 乾信一郎 訳、ハヤカワ epi 文庫)
80年代に刊行された最終章付きの邦訳とは「アントニイ・バージェス選集 全8冊揃(既刊分) 初版(斎藤数衛・黒柳久彌 ほか訳 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」」の事だろう。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」インタビューが収録されたのは95年だ。
その際、映画版「時計じかけのオレンジ」の要素を組み込むとして、原作小説をどう取り扱うか。
ここにひとつ、「ミスリードの種」がある。
小説版にも映画版と同じく、猫屋敷への強盗という場面はあるが、牛乳瓶で殴られるという描写はない。
牛乳瓶で殴られるのは、映画版のみの描写なのだ。
映画版「時計じかけのオレンジ」はともかく、小説版「時計じかけのオレンジ」まで読む人物はかなり限られてくる。 わかる人だけわかればいい、ということであれば、あえて映画版の描写を選ぶ理由はなく、小説版の描写を選ぶだろう。 つまり「牛乳瓶で殴られるという描写」から、映画版「時計じかけのオレンジ」を連想して欲しいという意図がそこにあったのではないか。
しかしそもそも何のために。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は、「時計じかけのオレンジ」の系譜にある創作物であると暗に含ませていたのではないか。
そして恐らくは、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」のあの面子が読んだ「時計じかけのオレンジ」とは、最終章付きの選集版だったのではないだろうか。
失われた第21章(第3部7章)
この(原作)小説版には、映画版ではカットされた、主人公の「その後」(と言っても長くて数年の範囲だろう)を描いた第21章(最終章)が収録されていたりされていなかったりする。 なぜ映画版ではその部分が無いのか、紆余曲折があるにはあるらしいのだが今回は扱わないので町山智浩にでも聞いてみたらどうだろうか。
簡易にまとめてみようと思うが、これはネタバレと言っていいだろう。
気になるなるのであれば「時計じかけのオレンジ[完全版] ハヤカワ epi 文庫」が現在最も簡単に入手出来る第21章付きの邦訳なので読んでみては如何だろうか。
映画版でカットされた第21章のあらすじとは、こうだ。
ルドビコ療法(暴虐や残虐、淫蕩といったものを懲罰的に抑え込む施術)を解除されたアレックスは再び、夜の街にて、かつて仲間と共に行っていた超暴力を、新たな仲間と共に繰り返していた。 しかし「ただ命令を下すだけで、みんなが実行するのを一歩さがって見物することが多くなっていた」(296p)、ついにはその超暴力そのものに対し、疑問を覚え始める。 偶然にも過去の仲間であったピートと再開し、ピートが幸せな家庭を築きつつあるという事実を知る。 そしてアレックスは、自身の意思で超暴力を過去へと追いやり、自らの未来へと目を向ける。
はたして最終章があることによって小説がより力強いものになっているのか、それまでの強い主張を妥協して曲げたものになっているかは意見のわかれるところだろう。
--- 「時計じかけのオレンジ[完全版]」 318p (アントニイ・バージェス 乾信一郎 訳、ハヤカワ epi 文庫)
「時計じかけのオレンジ[完全版] ハヤカワ epi 文庫」のあとがきを記した「特殊翻訳家 柳下毅一郎」(本当にこう書いてあるし、当人と特殊漫画家・根本敬の関係は深そうだ。ちなみに私がまた根本敬かよと心底げんなりしたことをあえて記す必要は無いだろう)が言うように、第21章(最終章)の存在で、「時計じかけのオレンジ」が持つ意味というのは大きく変わるのだ。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の構成
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」のテーマに、「いじめってエンターテイメント?!」という言葉がある。
そして「時計じかけのオレンジ」に対する評価として散見される、「娯楽としての暴力」という感想。
「いじめってエンターテイメント?!」、言い換えれば「娯楽としてのいじめ」だ。
ならば「暴力ってエンターテイメント?!」、そう言い換えてもいいだろうか。
それが、誌面に掲載された小山田さんの発言の数々(いじめ自慢パート)です。
ただ、冷静に考えると、この時の話は《打ち合わせ》です。小山田さんへの《インタビュー》ではありません。
--- 北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」
「いじめ紀行」は、北尾修一が言うように前半「いじめ自慢パート」と、後半の「感動ポルノパート」に分かれている。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の残酷な描写と、独白、冒頭にある「○人犯カード」への言及などを加味すれば、小山田圭吾に「アレックス」の姿を重ねるのはまず不思議ではない。
しかし、映画版「時計じかけのオレンジ」は、アレックスの超暴力が復活して終わる(これにも様々解釈があるがここは北尾修一非公式ファンクラブ公式サイトであり映画専門サイトではないので割愛する)。
映画版「時計じかけのオレンジ」には、(小説版第21章に相当する)いじめ被害者とのおぼろげな交流を語った「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」後半に当たる部分が、無いのだ。
この矛盾が、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」と、(映画版)「時計じかけのオレンジ」の関連を否定してしまう。
これが上述した「ミスリードの種」が生んだミスリード、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を、「時計じかけのオレンジ」の系譜にある創作物であると意識できない理由だ。
その上で、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」後半パートは、小説版「時計じかけのオレンジ」最終章に相当するのではないか。
つまりは「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は知名度の観点から、映画版での描写である牛乳瓶を採用したが、わかる人だけわかればいいとは言っても、あまりにも分かりづらかったという、なんともげんなりするろくでもない話なのではないかという話だ。
奇妙な符号
21という数字にはバージェスにより意味が込められている。
バージェスは本書が第1部から第3部までそれぞれ7章ずつで構成され、全体で21章となる(二一歳は人間が成熟する年齢だという)ことを指摘している。
--- 「時計じかけのオレンジ[完全版]」 317p (アントニイ・バージェス 乾信一郎 訳、ハヤカワ epi 文庫)
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は、全21ページ(記事見出しページ除く)だ。
そしてくそくらえだ。
--- 「時計じかけのオレンジ[完全版]」 310p (アントニイ・バージェス 乾信一郎 訳、ハヤカワ epi 文庫)
「くそくらえ」とそう終わる「時計じかけのオレンジ」失われた21章。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」には、取って付けたように年賀状が記事内で21ページ目に、全体として 072 (この数字を「オナニー」と読む文化圏がかつて存在した)ページ目に掲載され終わる。
くそくらえと終わる「時計じかけのオレンジ」、そしてオナニーとして終わる「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」
なかなかの対比ではないか。
どちらもなかなかろくでもない。
自由意志
さて冒頭の「自由意志」がなんだという話に戻ろう。
「人は自由意思によって善と悪を選べなければならない。もし善だけしか、あるいは悪だけしか為せないのであれば、その人は時計じかけのオレンジでしかない――つまり、(以降略、あまり引用するのもと思うのでぜひ書籍で確認して欲しい)」
--- アントニイ・バージェス 乾信一郎 訳 「時計じかけのオレンジ[完全版]」(ハヤカワ epi 文庫) 317p
だが、バージェスはむしろ「主人公か主要登場人物の道徳的変容、あるいは叡智が増す可能性を示せないならば、小説を書く意味などない」(A Clockwork Orange Resucked)とする。
--- アントニイ・バージェス 乾信一郎 訳 「時計じかけのオレンジ[完全版]」(ハヤカワ epi 文庫) 317p
バージェスが「時計じかけのオレンジ」で描きたかったテーマは何だったのだろうか。
自由意志により選ぶこと、そしてそこには何らかの意味があって欲しい、バージェスはそう願ったのだろうか。
それは、分からない。
では、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」にもその思いが込められていたのか。
それもまた、分からない。
しかし少なくとも、「善」であるという前提でその自由意志も希薄なままに「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を読めばそれは、「時計じかけのオレンジ」と言っていいだろう。 囚われのいじめ紀行、誰かがそんな事を言っていたような気がする。 まさに、囚われているではないか。
それは「悪」であるという前提で「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を読むことにも等しく言える。
以前どこかで、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻はそもそも多方向に読まれるべき」だとか、「小山田圭吾のためにだけ読まれることを問題視している」だのとそんなような事を語った気がする。
「自由意思」、とまでは言わない。
しかしせめてもう少しまともに読み込まれて然るべきだろう。
そしてそれが、私達が負う何かしらに対する責任というものではないか。
…そんな事を思うからこそ私は、この北尾修一非公式ファンクラブ公式サイトの運営を続けているのだ。
それとも
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」には挿絵がある。
中段左右、計20ページ分。
猿の惑星登場人物を模した着ぐるみ(襟元のヒダのような描写は、猿の惑星コーネリアスだろう)の頭部以外を脱ぎ捨て、Tシャツにジーンズという姿でタバコを吸ったりし、そして猿の頭部をも脱ぎ捨てると、小山田圭吾と思わしき顔が見え、踊り、屁を放ち、それで自爆する。
最後のコマは、CORNELIUS 1995と書かれた墓だ。
猿はいつしか人となりそして死ぬ。
少年期の終わり、人としての成長、最後の悪ふざけ…。
「超暴力」の申し子「アレックス」が思ったものは、何だったのか。
…ま、当然、この陰謀論が全くもって的外れという可能性のほうが圧倒的に高いことは、言うまでもないのだが。
次章、小山田圭吾における残酷の研究へ
- 「あの日、千代田線では、乗客が犠牲になることはありませんでした。自分の夫がただ殺された訳ではなく、命と引き換えに多くの人たちを救ったという思いは、悲しみに沈んでいたシズヱさんを励まし、力づけてくれました。」 (地下鉄サリン事件から27年 高橋シズヱさん なぜ彼女は心を燃やし続けられるのか|NHK事件記者取材note)↩
- 「早期の対処でさらなる惨事を防いだ形だが、サリンの影響で瞳が小さくなる「縮瞳」に悩まされることになった。14人が死亡、6千人以上が重軽症を負った事件から27年。既に“教祖”らが死刑に処された今もトラウマが残り、オウムがばらまいた「闇」への嫌悪感は消えない。」 (地下鉄でサリンが入った袋7つを回収した元警察官の述懐 あれから27年、今も手に残る「ぬるっとした感触」(47NEWS) - Yahoo!ニュース)↩
- 「神保監督も「今日はちょうど事件から27年。後遺症がある方もたくさんいらっしゃいます。事件が続いていることを伝えたい。特に若い人にこの事件があったことを知ってほしい」と力を込めた。」 (地下鉄サリン被害者家族のドキュメンタリー映画上映「事件が続いていることを伝えたい」)↩
- 「選挙は私の最終テストだった。この世の中はもはや救済できない。これからは武力でいく」 (地下鉄サリン 未曽有のテロの背後にあった「日本征服計画」とは:時事ドットコム)↩
- 「14人が死亡、6000人以上が重軽症を負った1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件から3月で27年となる。被害者の1人、千葉県八千代市の会社員、町田聖治さん(44)は、両親の他界により18歳まで児童養護施設で過ごし、進学のため上京した直後に巻き込まれた。」 (地下鉄サリン27年 事件、風化させぬ 「苦労多いが自分の宿命」 千葉の会社員、今も後遺症 /東京 | 毎日新聞)↩