※注:一部事件名等、伏せて引用をおこなっております※
2021年の夏、小山田圭吾は世界的に炎上した。
今回記事は、その是非や経緯を問うものではなく、その炎上にあったいくつかの「残酷」を語りながら、その炎上にあったいくつかの「背景」を語るものだ。
これから語る事は恣意的も恣意的、陰謀論の類であるとすら言っていいだろう。
触れたくもないというのが正直な所ではある、…が。
やはりこれは、誰かが自爆覚悟で触れなければならないのだろうと、そう思うのだ。
残酷
以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 064p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載された雑誌の表紙は、「魔太郎が来る!!」を構えた小山田圭吾だ。
これをもって、「魔太郎が来る!!」にはこれだけ残虐な描写があるのだからと、その残虐性を「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」に重ねる論説を、ちらほらと見かける。
そして、こういう見方も出来る。
藤子不二雄Aは本作について『自分がいじめられっ子だったこともあるのですが、いじめられっ子が実は凄く強くて、やられた相手に大逆襲するような作品なら面白いだろうと思ったのが本作の出発点です』と語っているように、全国のいじめられっ子のうっぷんを代弁し、それを豪快に晴らしていくカタルシスに満ちた作品である。
--- 魔太郎がくる!! - Wikipedia
「魔太郎がくる!!」には残虐な描写が確かにあるが、フィクションだ。
例えば手塚治虫の作品においても、「いじめ」は描かれている。
紫のベムたち
1970年2月18日号掲載。29ページ。
紫色のベム型宇宙人が、地球の情報を手に入れようとしていた。彼らは山村に住むカン太郎という知能の低い少年を選んでおびき寄せ、情報を得る時だけ知能を飛躍的に高めて話をさせた。カン太郎が話していたのはおとぎ話である桃太郎だったが、宇宙人たちはそれを実際の戦争と勘違いして真剣に分析していた。カン太郎の兄である隆一はそれを知り、桃太郎の話を作り変えることによって宇宙人をうまく追っ払う方法を思いつく。
--- ザ・クレーター - Wikipedia
これが問題視された事、あっただろうか。
私が知る限り、というより、今検索してもそういう話は見当たらない。
手塚るみ子に聞いても、田中圭一に聞いても、恐らくは同じ答えが返ってくるのではないだろうか。
当然これも「魔太郎がくる!!」と同じく、フィクションだ。
では「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」はどうだろうか。
これらは小山田圭吾への「インタビュー記事」であり、フィクションとノンフィクションの境界にあると言っていいだろう。
フィクションとして読まれうると同時に、ノンフィクションとしても読まれうる。
私自身はまあ話半分程度だろうな、という程度に読んでいる。
そしてその曖昧さの上で、約30年前の世相や文化、掲載された雑誌の慣習やその背景が伴われず、五輪という究極的な正義の場にて世論へ晒されてしまった。
「そう語ってしまった残酷」
小山田圭吾問題における「残酷」を数え上げれば、小山田圭吾がいじめた残酷、(それを商業的な文脈で)そう語ってしまった残酷、そのままにしてしまった残酷、そして30年近くの時を経て盛大に蒸し返されてしまった残酷など、きりがないとすら言っていいだろう。
様々な側面からの様々な残酷がそこにあり、その残酷もまたそれぞれに、様々な見え方を持っている。
「(ノンフィクションとしても読まれうる)商業的なインタビュー記事で、(それがサービス精神からのものであろうとも)そう語る事でより魅力的な記事になるであろうと、そう語って(そう掲載されて)しまった残酷」
雑誌側による完全な捏造とでもしない限り、その「残酷」から逃れる事は叶わないのだろう。
しかしある描写に関しては、言及されておくべき背景がある。
食糞強要
「小山田圭吾2万字インタビュー」は強烈な見出しを伴っていた。
全裸でグルグル巻にしてウンコ食わせてバックドロップして……ごめんなさい
--- 「小山田圭吾2万字インタビュー」(ROCKIN’ON JAPAN 94年1月号)
この「ウンコ食わせて」という部分に関しては、小山田圭吾による9月17日付けの声明(【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】)において、犬のウンコを食べることが出来ると豪語する(も未遂に終わる)級友についての思い出を語ったと説明される。 また「全裸でグルグル巻にして」という部分に関しては、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」において、先輩によって行われたと説明される。
ちなみに私はこの話、ピンクフラミンゴだなんだと言いたいわけではないが、少し懐疑的に見ている。
つまりはどうやって犬のウンコと断定したのか、という話だ。
道端に落ちているからといって、それが犬のウンコだとは限らない。
一体何を言っているんだと思われそうだが、これは尊厳とかそいういう人としてという部分にすら踏み込んだ話であり、私としては「一体何を言っているんだ」という言葉をそのままに返したい。
これに関してもまあ、ちょっとした心当たりがあるにはあるのだが… それは後回しにしよう。
そもそも小山田圭吾があのろくでもない内容を語らなければ私もまたこんなところで犬のウンコがどうとか人としてなんだかんだと喚き散らかすこともなかったわけだ。 そして、今回のこの記事、ウンコバックドロップだのウンコだのオナニーだの好意的に読むだのメディアリテラシーだの呪いだのと盛大に盛りまくった糞壺もかくやというお鉢が私の所に回ってきた最悪の因果の最悪の成れの果て、因業とすら言っていいだろう予定調和の上にあるべき最後のマイルストーンと言っていいだろう。 せめて因果因業のその先は螺旋であり少なくともどちらかには進んでいると思いたいものだが果たしてそれすら怪しいものだ。
まあ、ふと辺りを見渡せば、片岡大右はあの微妙な連載でコロナの時代の想像力とやらを示し力尽きハウス・オブ・ザ・ドラゴンにご執心、電八郎もまた大月英明にご執心、どっちかが書くであろうと高を括っていたらついうっかりこのざまだったというだけの話だ。
…話を戻そう。
「犬の糞(を食べる事が出来ると豪語する級友)に関する思い出」を語る事で、より魅力的な誌面になるであろうと考え、そう語り書かれてしまった残酷。
語り手と書き手、どちらがどう盛ったか、どう語らせどう語ったのか、録音でも出て来ない限りは水掛け論の域を出ない。
いずれにせよ、この語り手と書き手はそれぞれに、それぞれを利用する共犯関係にあったはずだ。
その上でまず、「犬の糞に関する思い出」が書き手側による完全な創作であるという説は、「犬の糞に関する思い出」を語ったとする小山田圭吾自身の声明により否定される。
少なくとも「小山田圭吾2万字インタビュー」のどこかで、この「犬の糞に関する思い出」は語られていたのだ。
犬の糞を食べる事が出来ると豪語し口に含みぺっと吐き出したという級友についての「犬の糞に関する思い出」を、「いじめ」という文脈の中で語る場合、それは強要か誘導を伴って初めて「いじめ」と言える代物となる。
あるいは、その様をあざ笑うという事であれば、それはまた別の切り口を持った「いじめ」と言っていいだろう(声明においてはこの級友本人を含めその場にいた皆で笑っていたとされる)。
「いじめ」について語っている箇所でこの思い出を、声明での言葉そのままに語れば、そこには「強要」や「誘導」あるいは「嘲笑」といった前提が暗黙のうちにあると受け取らざるをえない。
では、「犬の糞に関する思い出」は「いじめ」とは関係のないエピソードとして、「いじめ」について語った所とは別の所で語られたのだろうか。
つまり、「犬の糞に関する思い出」を書き手が、「いじめ」について語っている所へ独断で持ってきたということなのだろうか。
であるならば、「犬の糞に関する思い出」は本来、「小山田圭吾2万字インタビュー」のどこで語られていたのか。
「小山田圭吾2万字インタビュー」は、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」ではない。
「小山田圭吾2万字インタビュー」において問題発言のある箇所というものは、限定的だ。
そして、むしろ「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」で語られるにふさわしい「犬の糞に関する思い出」はなぜ、「小山田圭吾2万字インタビュー」の内容を訂正したいという意図を持った「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」において語られなかったのか。
「(ノンフィクションとしても読まれうる)商業的なインタビュー記事で、(それがサービス精神からのものであろうとも)そう語る事でより魅力的な記事になるであろうと、そう語って(そう掲載されて)しまった残酷」
いくら言葉を重ねようともどこかで引っかかり続けるであろうこの残酷に関する、ちょっとした心当たりをまずは語りたい。
行け!稲中卓球部
『行け!稲中卓球部』(いけ!いなちゅうたっきゅうぶ)は、古谷実による日本のギャグ漫画。
『週刊ヤングマガジン』(講談社)において、1993年から1996年まで連載された。1996年、第20回講談社漫画賞一般部門受賞作品。2010年9月時点で累計発行部数は2500万部を記録している[1]。
その多彩な人物、意表を突くギャグや思春期真っ只中の少年・少女の青春を描いた物語。
--- 「行け!稲中卓球部 - Wikipedia」
「稲中」、このギャグ漫画の金字塔をあえて説明する必要はないだろう、古谷実の初期作品だ。
この後、古谷実は「僕といっしょ」や「グリーンヒル」を経て、「ヒミズ」以降、その作風を大きく変える。
特に「ヒミズ」以降は「サブカル」とそう言っていいだろうか、少なくともメインではないように思う。
そもそも稲中のなかにおいてすらどこか不穏な、「特殊漫画家 根本敬」的な要素は感じられていた。
恐らくは根本敬的な意味での「いい顔をした親父達」が、ちょいちょい出てくるのだ。
小山田 あと、サンチェがすごく好きなんですよ。
--- 月刊カドカワ12月号 063p 精神講座「寝る子は育ち、寝る青年は大成するのか?」特別講師古谷実
稲中における「サンチェ」という登場人物に関する詳しい言及は避けるが、同「伊沢」が「サンチェ」へ向ける視線は、どこか根本敬的であるとすら言っていいはずだ。
「でも、やるんだよ」っていうのは、特殊漫画家と呼ばれてる根本敬さんのすごい好きな本があって。『因果鉄道の夜』っていうんですけど。
--- 月刊カドカワ12月号 020p 総力特集 cornelius 5つめのシーズン 「でも、やるんだよ」魂でぶっとばせ!
そして、「サンチェがすごく好き」と語り、根本敬への敬愛をも語る当時の小山田圭吾もまた、「伊沢」が「サンチェ」へ向ける視線に近いものを持っていたであろうことは想像に難くない。
稲中と根本敬という珍説を垂れ流しながらそれらしい描写を列挙し、古谷実とサガノヘルマーが肩を並べ連載をしていたあの当時の週刊ヤングマガジンと言う存在自体の是非に思いを馳せつつ語ってみてもいいのだが、ここは漫画専門サイトではなく北尾修一非公式ファンクラブ公式サイトなのでそれは割愛させていただこう。
どこか根本敬的、稲中に対するそんな印象は強い。
そして作中には、CorneliusのTシャツが出てくる。
そしてそもそも、小山田圭吾と思わしき人物すら出てくる。
柴ちゃんの部員更正計画
稲中単行本2巻には「その21 柴ちゃんの部員更生計画」という話が収録されている。
あらすじとしては、稲豊市立稲豊中学校男子卓球部のテコ入れをその顧問・柴崎が画策し、部員へ校外でのゴミ拾いなどを指示するが、自身の点数稼ぎのためだったと誤解され計画が頓挫するというものだ。
その中に、柴崎が少年期にうけた「いじめ」のトラウマが、「ウンコ食わせるぞ」と部員に迫られる事でフラッシュバックするシーンがある。
そう、食糞強要という「いじめ」だ。
時期
僕はヤンマガを買っているんですよ。それでいつも「行け! 稲中卓球部」読ませていただいてて。
--- 月刊カドカワ12月号 058p 精神講座「寝る子は育ち、寝る青年は大成するのか?」特別講師古谷実
稲中は、週刊ヤングマガジン1993年14号(毎週1回月曜発行)にて連載が始まる。
21話目の「柴ちゃんの部員更正計画」が掲載された時期を、(21話が収録された)単行本第2巻の奥付に当たれば、「(ヤングマガジン1993年第40号~第50号、第52号の掲載分を収録しました。)」とある。
単行本第2巻には、「その13」から「その24」までの12話が収録されている。
つまり「その24」が第52号掲載として、「その23」は第50号、「その22」は第49号、「その21」は第48号となるだろうか。
93年の週刊ヤングマガジンの表紙画像を検索し、時期的に近い号を探すと、93年12月13日51号、93年11月1日45号、という物が出てくる。
1993年のカレンダーを参照しながら、第48号がいつ発売されたかを確認してみよう。
93年12月13日が51号、12月06日が50号、11月29日が49号、11月22日が48号。
93年11月01日が45号、11月08日が46号、11月15日が47号、11月22日が48号。
22年6月24日現在、最新の週刊ヤングマガジンは22年6月20日発売、22年7月4日号、2週間先取りしている。
「その21 柴ちゃんの部員更生計画」が掲載された週刊ヤングマガジン93年11月22日48号は、93年11月8日発売、ということになるか。
そして、食糞強要の描写がある「小山田圭吾2万字インタビュー(血と汗と涙のコーネリアス)」は、Rockin’on JAPAN 94年1月号(毎月1回16日発行)に掲載された。
その発売日は93年12月16日だろうか、そしてそのインタビュー収録はいつだったのだろうか。
「小山田圭吾2万字インタビュー」には写真がいくつか掲載されており、服装としては初冬にも見える。
…時期的には重ならなくも、ない。
仮に、「小山田圭吾2万字インタビュー」の収録が11月8日以降であった場合、小山田圭吾(とそして山崎洋一郎含むロッキン編集)は、「柴ちゃんの部員更生計画」の記憶も新しいままにインタビュー収録へと挑み、「柴崎へのいじめ」から着想を得て、「犬の糞に関する思い出」を、「食糞強要といういじめ」と「盛って」しまった可能性があるのだ。
では、「犬の糞に関する思い出」と「柴崎へのいじめ」が無関係であったとして、「食糞」という行為が同時多発的に商業誌へ掲載されるという確率はどの程度のものか。
しかも「稲中」を読んでいたと好意的に語る人物に対するインタビュー、偶然であるとすればむしろ運命的な物をすら感じるではないか。
いずれにせよこの「食糞強要といういじめ」が、(国民的と言っていいだろう)商業誌に、ギャグ漫画として掲載されていたという事自体、当時の文化的背景というものをある程度説明している。
「村田(仮)」=柴崎?
その上で、「小山田圭吾2万字インタビュー」の内容を訂正する意図が込められていたという「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」における「村田(仮)」に関するある描写に注目してみよう。
(中略)髪の毛がかゆいみたいで、コリコリコリコリ頭掻いてるんですよ。何か髪の毛を一本一本抜いてくの。それで、10円ハゲみたくなっちゃって、そこだけボコッとハゲててルックス的に凄くて。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 062p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
…そういう事だろうか。
つまるところ私が言いたいのは、柴崎へのいじめ描写を思いながらインタビューに答えたのだと言いたいのなら、そもそも「村田(仮)」じゃなくて最初から「柴崎(仮)」にしろと言いたい。「柴田(仮)」でもまあいいだろう。 分かりにくい事この上無い上に、一体誰がそんな事に気づくのかという話にもなってくる。 その上、掲載時期、収録時期などのタイミングがあまりにシビアで言及するにしても盛大な爆死を前提として覚悟しなければならない。 そもそも内容が内容だ。 言及しづらい。 でもやるんだよ魂どころの話ではない。
最悪のお鉢だの何だのと私が怒り狂っていた理由、少しはお分かりいただけただろうか。
犬のウンコ
そういえば、犬のウンコに関してもちょっとした心当たりがあるような事を言ったような気がする。
…さすがにノーコメント。
道端でウンコを拾ったとしてそれが犬のウンコである確率は、どの程度だろうか。
かなり高いはずだが、断定もまた出来ないはずだ。
その上であえて犬のウンコと強調した意味、…それは。
稲中に残された謎
稲中には未だ、謎がいくつかある。
有名所では前野の結婚相手だろう。
そして、「田辺」(「その49 ダンディ校長」、「その50 流れ者」)が着ていたCornelius Tシャツと同じ意匠のTシャツを着ていた「あっちゃん」(「その52 一人ドッキリ」)の存在。
そして… と、ここで語りたい謎もあるのだが、当該巻がどうも借りパクされたか見当たらない。
あの野郎と薄っすらこれにも心当たりがあるのだが、これもまた因果だろう。
まだ言及するには早いという因果宇宙の意思と受け取っておこう。
稲中の単行本最終巻である13巻の末尾には、連載の終了に際し寄せられたメッセージが掲載されている。
その中に、なんで?という人物によるメッセージがある。
渋谷陽一、言うまでもなく、ロッキング・オン・グループ代表取締役社長だ。
この当時はどうだったのだろうか、何れにせよ「代表」とある。ロッキン中枢にいた事は確かだろう。
そしてどうもこのイラストの人物、見覚えがあるような無いような…。
ところで「ロッキン 稲中」で検索するとなぜかTシャツを売っていたりもする。
何か別の接点があったのだろうか、それとも、と、そう考えてしまうのは陰謀論だろう。
小山田圭吾が「魔太郎がくる!!」を構えいつか手痛いしっぺ返しを食らうであろう事を予言したように、いつか「小山田圭吾2万字インタビュー」が問題になる日が来るであろうと、ロッキンはそう感じていたのだろうか。
それは、分からない。
くれぐれも
ここで語った事は、完全に推測の域を出ない。
むしろ恣意的、あらゆるファクトとは無縁の地平にある。
陰謀論や妄想の類とすら言っていいだろう。
カドカワで言及されたように小山田圭吾は(当時の)ヤンマガを読んでいたこと、稲中を読んでいたこと、そして「柴ちゃんの部員更生計画」の掲載とインタビュー時期が近い事、柴崎への食糞いじめという描写がそこにあったこと。
これら単体はそれぞれファクトとも言える。
しかし使い方を間違えれば、「古谷実のせいで」とか「稲中さえ無ければ」といった解釈を生んでしまいかねない。
そして当然、その解釈は、古谷実ファンや漫画ファンから一定の反感を持たれるであろう事は言うまでもない。
仮に「柴崎へのいじめ」に着想を得ながらインタビュー収録に挑んだとして、その根底にあるものは「稲中」に対するリスペクトだろう。
それはくれぐれも忘れないでほしい。
川崎の先にあるもの、あるいは川崎町田交換論者への鉄槌
岡崎京子による「リバーズ・エッジ」(93年)と「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」(95年)には、共通した描写がある。
「うん。もう人の道に反していること。だってもうほんとに全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。(略)」
---「小山田圭吾2万字インタビュー」 (山崎洋一郎、『ROCKIN’ON JAPAN vol.80』1994年 ロッキンオンジャパン)
「小山田圭吾2万字インタビュー」で語られた被害者と、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」において「村田(仮)」として語られた被害者は、その被害内容(バックドロップ、全裸緊縛の上での自慰強要)の一致から消極的に、同一人物であるとされている。
違いは「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」において、「渋カジ(先輩)」が全裸緊縛・自慰強要の実行犯であると説明された点だ。
そして村田(仮)は、「ロッカーに閉じ込めて蹴飛ばす」といういじめの被害者でもある。
村田(仮)へのいじめ描写を仮にまとめれば、緊縛、全裸強要、自慰強要、バックドロップ、そして、ロッカーへの監禁、(今回は扱わないが)たかり、となるだろうか。
その上で、話を「リバーズ・エッジ」に戻そう。
この作品には「山田」という人物が登場する。
今回はこのモデルがなんだかんだと言う話ではなく、「山田」が作中で受けていた「いじめ」についての話だ。
これは作品冒頭、山田が観音崎という人物から受けた、緊縛の上でロッカーへ監禁するという「いじめ」の描写だ。
そして作品序盤、またしても観音崎(左、右は山田)による全裸(正確には下半身)強要という「いじめ」の描写だ。
「柴ちゃんの部員更正計画」と同じく、掲載年などを確認してみよう。
93年3月号~94年4月号、全14編、「脱げって言ってんだろ!!」というシーンは3話目(SCENE3)にある。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」(95年)より以前に収録された「小山田圭吾2万字インタビュー」の収録ですら93年の遅い時期ではないか。
「稲中」と同じく、小山田圭吾(と両誌面関係者)は、「リバーズ・エッジ」を思いながら、「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」のインタビュー収録に挑んだ可能性があるのだ。
そして「リバーズ・エッジ」にしても、やはり根底にあるものは「稲中」へのそれと同じく、作品に対するリスペクトだろう。
「岡崎京子のせいで」「リバーズ・エッジが」という類の解釈には、くれぐれも至らないで欲しい。
「そのままにしてしまった残酷」
ここまで、「そう語って(そう掲載されて)しまった残酷」について心当たりを語った。
語り手と書き手、どちらがどれだけどう盛ったか、水掛け論でしかない。
しかし、そう語り(そう掲載する)事で魅力的な誌面になると考える残酷の背景には、どうやら「元ネタ」と思わしき物が存在する可能性があるようだ。
繰り返しになるが、これは完璧に推測の域を出ず、陰謀論の類ですらある。
しかし、可能性がある以上は、誰かに言及されておくべき事でもある。
そしてそれを踏まえ、小山田圭吾問題におけるもうひとつの残酷について語りたい。
小山田圭吾はなぜ、あの両誌面を、対処療法的に訂正してきたとはいえ、30年近くも実質的に放置してしまったのか。
問題視されるまで、問題視していなかったのか。
小山田圭吾にとって、「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」のあの内容は、その程度のことだったのか。
「そのままにしてしまった残酷」に関するちょっとした心当たり、語らせてもらおう。
インタビューにおける違和感
この雑誌のインタビューはどちらも、今からおよそ25年以上前の出来事だ。この記事が出てからというもの、2ちゃんねるや他の掲示板、ブログなどで本件が定期的に話題になっていたことを、本人は知らなかったのだろうか。
「もちろん知っていました。ただその時点ではどう対処していいか分からなかった。それを取り上げることで、正直、またこの問題が大きくなってしまうのではないかという恐怖があったのです。ずっと悩んでいました。事実でないこともいくつかあったので、それを訂正したりとか謝罪したりとかということを、どういう場でどうやればいいのかということが、自分でも判断できず、時間だけがたってしまったのです」
--- なぜ小山田圭吾はイジメ発言をしたのか? 加害性の否定と無意識のサービス精神 | 週刊文春 電子版
「どう対処していいか分からなかった」
名誉毀損だの誹謗中傷だのと、ネット上の揉め事で一喜一憂右往左往する愚民どもの平均である「現代の感覚」からすれば、この「どう対処していいか分からなかった」というのは少し不自然に聞こえはしないだろうか。
あるいは、「ホリエモン 開示請求 甲6」の如き憂き目を的確に回避した賢者の選択なのか。
それとも、ただの言い訳かなどと「現代の感覚」で考えてみても、これは当然、始まらない。
「現代の感覚」ではなく、「その時点ではどう対処していいか分からなかった」という「当時の感覚」とはどういうものだったのか。
まず「その時点」とは、「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載された「その時点」ではない。
ネット上で定期的に話題になっていることを知らなかったのかと問われ、もちろん知っていたと返し、「その時点」と続けている。
つまり「その時点」とは、「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が誌面へ掲載され、ネット上で定期的に話題になっていたという「その時点」を指しているのだ。
「小山田圭吾における人間の研究」は2006年のブログ記事だっただろうか。
それ以前から、2ちゃんねるなどでも話題になっていたらしい。
小山田圭吾が最終的に対処を迫られるであろうものは言うまでもなく、「小山田圭吾2万字インタビュー」と「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」だろう。
そして、それらから派生し、それらが定期的に話題になっていた2ちゃんねるや他の掲示板、ブログなど、つまりはインターネット上の問題への対処もまた迫られていたはずだ。
これを、「2000年代のインターネット」や「2010年代のインターネット」という背景を踏まえず、「現代の感覚」で語って良いものか。
2000年代のイソターネット
まずは「インターネット歴史年表 - JPNIC」を当たろう。
2000年の「中央省庁のWeb改ざんが相次ぐ」「不正アクセス禁止法施行」「内閣官房に情報セキュリティ対策推進室が設置される(現内閣サイバーセキュリティセンター)」から続けざまに重要なインターネット関連法が施行される。
とは言っても、「プロバイダ責任制限法施行(改正前)」ですら2002年施行。
中央省庁Webの改ざんが相次いだりと、2000年代のインターネットは未だ脆弱でありそして未熟であった。
1990年代後半から急速に進んだインターネットの所謂イソターネット化(イソターとは - 日本イソターネット協会 / Isoternet Association of Japan)を踏まえ、「2000年代のインターネット」を要約すれば、「自由なインターネット」を総括するための過渡期だったと言っていいだろう。
総括の過程で形成される様々な線引、自由と法のせめぎ合い、誰もが手探りだった。
(無法で)自由なインターネット
「自由なインターネット」という、耳障りの良い言葉がある。
何ものにも支配されない真に自由な楽園としてのインターネット、という世界観は2000年代にも確かにあった。
しかし、自由なインターネットと無法なインターネット、その区別すら曖昧であったように思う。
そして、自由なインターネットのためには多少の犠牲も致し方なし、という空気が一部で醸成されていた。
「(無法で)自由なインターネット」
今でこそ、それってダークウェブじゃんと言われそうだが、あれは「(違法で)自由なインターネット」とでも言うべきだろう。
そして当時も、「(違法で)自由なインターネット」というものはあった。
ここで言う「無法」は、無政府主義的なニュアンスがより強い。
インターネットがはじまった当初は「よし、ネットがなにもかも解決するだろう」と思っていたんだよ。突如として我々すべてが互いに会話できるようになったし、きっとこれで万事解決だと。
というのも、これで人類の知性はすさまじく凝縮されることになるだろうし、政府だのなんだのはもう要らなくなるはずだと思っていた。
--- 「……状況は暗い」。ブライアン・イーノを突き動かすものとは何か。いま、自ら歌い訴えることを明かす | CINRA
2000年代の特に前半、「インターネットは自由であるべきだ」という類の意見は未だ根強くあり、そしてそこに僅かながらの希望もあった。
大義名分
「インターネットは自由であるべきだ」
様々な思惑のもとに、様々な濃淡の上で、様々な背景から、そうあるべきだと言及されていた。
2000年代、下村努とケビン・ミトニックがバチバチやってた90年代ではない。
勝負は既についていたのだ。
その上で「自由なインターネット」が生き残るためには、何かしらの大義名分が必要だった。
(多少の問題があっても)自由であったほうがいいだろうな、と思わせる何かしらを、ネット民は無意識に求めていたように思う。
いつか「自由なインターネット」を実現すれば、社会は開かれ、悪は裁かれる。
と、こうもっともらしく書けば、何かしらきちんとした意見のようにも聞こえるが、実際は、自由と無法を混同し、無法と違法を履き違え、青臭い正義感だけを拠り所に、ただひたすらに無責任なだけであった。
なんなら自由を建前に責任を放棄していたとすら言っていいだろう。
「2000年代のインターネット」には、「(無法で)自由なインターネット」という土壌があった。
その上で、「2000年代のインターネット」に係わる何かしらを語るに辺り、事前知識として言及されておくべき事件がある。
東芝クレーマー事件
東芝クレーマー事件(とうしばクレーマーじけん)とは、1999年(平成11年)に起きた、東芝の顧客クレーム処理を端緒とする事件である。「東芝ユーザーサポート事件(問題)」と称されることもある。
マスメディアや報道機関を介さずとも、一般人がインターネットを使って世論を喚起できることを示した[1]
--- 「東芝クレーマー事件 - Wikipedia」
東芝クレーマー事件自体は1998年末から1999年の話であり、その顛末も考えさせられる内容ではあるが、迫る「2000年代のインターネット」へ大きな爪痕を残した。
「市民」が「自由」に「悪」を「告発」する場としてインターネットが用いられた。
「自由なインターネット」に与えられた恐らくは最後の役割だったのだろう。
現代の感覚であれば、告発する側される側に拘わらず、前提として一定のモラルが求められるはずだが、そういうものは極めて希薄であった。
告発する側からすれば、正義を成すのだから多少の無法には目を瞑れという、それだけの話しだ。
この「告発」は、「インターネットには真実がある」とか判官贔屓といった牧歌的な価値観に支えられ、「告発する側に有利」であり、「告発される側に不利」な視点を持った観客を伴いながら行われていた。
「告発する側」が正義であり、「告発される側」が悪であるという前提、そして色眼鏡がそこにあった。
当時の「告発の場としてのインターネット」は、極めて恣意的で未熟かつ粗暴であった。
銃夢ハンドル事件
銃夢(ガンム、GUNNM)は、木城ゆきとによる日本のSF格闘漫画。集英社の雑誌「ビジネスジャンプ」で1991年3号から1995年10号にかけて連載された。
--- 「銃夢 - Wikipedia」
銃夢ハンドル事件(がんむハンドルじけん)は、2000年に漫画『銃夢』の作者の弟が、「銃夢」という文字を含んだハンドルを偶然使用していた無関係の人物に対して、「作品名と類似している」としてハンドルの使用中止を要求したことに端を発した一連の騒動である。
--- 「銃夢ハンドル事件 - Wikipedia」
ここで言及する意図は、「銃夢ハンドル事件」の是非を問うものではない。
重要な点は、「クリエイターが声をあげ」「盛大に炎上し」「クリエイターが謝罪した」というところにある。
「現代の感覚」で語れば、色々と突っ込みどころの多い事件と言わざるをえない。
そして「ゆっくり茶番劇商標登録問題 - Wikipedia」を連想しがちだが、構造的には結構違うので誤解なきよう。
2ちゃんねるを中心にネット上では批判が噴出し、騒動は一般の雑誌(週刊宝島)でも取り上げられ[1]、問題点について検証するサイトも登場した[2]。『銃夢』の出版元である集英社のサイトにも抗議が殺到し、同社サイトの運営に支障を来たす事態になった。『ゆきとぴあ』では荒らし行為が続いていたが、その後に木城ゆきとや関係者は方針を変更し、2000年5月には謝意を表すために『ゆきとぴあ』を一時休止したほか、ハンドルを使用していた人物に面会して謝罪し、和解を申し入れた。
--- 「銃夢ハンドル事件 - Wikipedia」
インターネット関連の法整備もままならず、誰もが手探りという状態にあった当時、この問題が「(無法で)自由なインターネット」を守るためという大義名分のもと炎上したという側面があったことは言うまでもない。
「パテント・トロール」問題の如くに、ハンドルネーム選択の自由が制限されるのではないかという危機感があった。
クリエイターとの力関係においては、クリエイター側が圧倒的に不利であった。
そして、ネット上での問題をどう解決すればいいのか、圧倒的に経験不足でもあった。
さらには、「告発の場としてのインターネット」における前提としての「告発する側の正義」がそこに加わった。
2000年代を貫く前例として、大きな話題になったこの事件の顛末が、小山田圭吾が「どう対処していいか分からなかった」と語るに至る要因となったことは想像に難くない。
スマイリーキクチ中傷被害事件
では、2000年代において、そういうネット上での炎上や問題に対し、打つ手は何もなかったのか、別件を当たろう。
スマイリーキクチ中傷被害事件(スマイリーキクチちゅうしょうひがいじけん)は、お笑いタレントのスマイリーキクチ(本名・菊池聡)が「某事件」の実行犯であるなどとする誹謗・中傷被害を長期間に亘って受けた事件である[注釈 3]。
インターネットにおいて、1人の人間に誹謗・中傷を行った複数の加害者が一斉摘発された日本で初めての事件であると同時に[2]、被害者が一般人ではなく有名なタレントであったことなどから全国紙やニュース番組でも大きく報道された[2][3][4][5]。
--- 「スマイリーキクチ中傷被害事件 - Wikipedia」
2009年における一斉摘発の影響もあり、キクチへの中傷は往年よりも大幅に沈静化したものの、その後もネット上での中傷や脅迫が一部の掲示板で散見されたため中傷・脅迫が再燃することへの不安を完全に拭い去ることができなかった。実際令和に改元した後も、キクチに対する誹謗・中傷や◯害予告そのものは2021年現在でも続くこととなった[88]。
--- 「スマイリーキクチ中傷被害事件 - Wikipedia」
スマイリーキクチの事例で注目するべきは、一応の収束を見るまでに約10年を要し、その上で完全な解決には至らなかったという点だろう。
「凶悪事件に関与している(デマです)」という強烈なデマ、しかも当人は早い段階で否定、薄弱な根拠のみで作り上げられた虚構、さらには◯害予告まであったにも関わらず、だ。
当時の、「告発の場としてのインターネット」で生じた「(無法で)自由なインターネット」上の問題へと向き合い、それを解決することの難しさ、スマイリーキクチ中傷被害事件はそれを、現在進行系で示し続けている。
小山田圭吾五輪炎上事件
「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が根本的な原因とは言え、それが定期的に話題になっていたのは主としてインターネット上であった。
そして、2ちゃんねるのスレッド、「クソガキどもを糾弾するホームページ」、「小山田圭吾における人間の研究」、いずれも2000年代に生まれたものだ。
これらはいずれも「(2000年代の)告発の場としてのインターネット」をその背景に持っていると言って良いはずだ。
では問題と向き合い炎上(「炎上」という言葉自体は2005年から --- 「炎上 (ネット用語) - Wikipedia」)したとして、それがどこで行われるかと言えば、当然ネット上だろう。
小山田圭吾が抱えた問題もまた、東芝クレーマー事件、銃夢ハンドル事件や、スマイリーキクチ中傷被害事件と同じく、当時の「告発の場としてのインターネット」、そして「(無法で)自由なインターネット」という背景を伴い語られるべきなのだ。
「もちろん知っていました。ただその時点ではどう対処していいか分からなかった。それを取り上げることで、正直、またこの問題が大きくなってしまうのではないかという恐怖があったのです。ずっと悩んでいました。事実でないこともいくつかあったので、それを訂正したりとか謝罪したりとかということを、どういう場でどうやればいいのかということが、自分でも判断できず、時間だけがたってしまったのです」
--- なぜ小山田圭吾はイジメ発言をしたのか? 加害性の否定と無意識のサービス精神 | 週刊文春 電子版
東芝クレーマー事件や銃夢ハンドル事件の如く炎上すれば何が起こるか。
そして問題がこじれようものなら、一応の収束を見るまでに10年もの期間を要し、未だ完全には解決していないスマイリーキクチ中傷被害事件の如くになりかねない。
「(無法で)自由なインターネット」上の問題へ向き合い、解決することの難しさ。
「(2000年代の)その時点ではどう対処していいか分からなかった」
「(無法で)自由な(2000年代の)インターネット」を紐解けば、小山田圭吾がそう語る事に一定のリアリティを見出すことが出来る。
2010年代
2000年代、インターネット普及率は2000年代前半で過半数を超え8割に迫る(インターネットの普及 : 平成23年版 情報通信白書)など、インターネットは名実共にインフラとなる。
当然その過程において、様々な判例や事例、ノウハウ、炎上への対処法といったものが急速に積み上がっていったはずだ。
「現代の感覚」で言えば、小山田圭吾のこの問題、何かしらの手を打とうと思えば打てただろうと、そう考えるのはまず妥当だろう。
そしてこの「現代の感覚」というのは2010年代には既に形成されていたのではないだろうか。
ではなぜ、2010年代に何かしらの手を打たなかったのか。
特に2010年代後半での対処を怠った事は、脇が甘かったという指摘を逃れ得ないだろう。
しかし同時にこういう見方も出来る。
悪趣味のそのあと
結果として小山田圭吾が世界的に炎上したのは2021年ではあるが、「小山田圭吾2万字インタビュー」そして「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載された1990年代の特殊な文化的背景に言及する必要があるだろう。
1990年代中頃になると鬼畜系サブカルチャーが鬼畜ブーム・悪趣味ブームとして爛熟を迎え、不道徳な文脈で裏社会やタブーを娯楽感覚で覗き見ようとする露悪的なサブカル・アングラ文化が「鬼畜系」または「悪趣味系」と称されるようになった[256]。
--- 鬼畜系 - Wikipedia
鬼畜系雑誌の衰退
1997年には『危ない1号』『週刊マーダー・ケースブック』愛読者の酒鬼薔薇聖斗が「某事件」を起こし[285]、悪趣味系のサブカルチャー書籍を棚から撤去する書店が続々と現れた[286]。1999年5月には「ハッキングから今晩のおかずまで」を手広くカバーする日本最大級の匿名掲示板「2ちゃんねる」が西村博之によって開設され、鬼畜系のシーンは出版文化からインターネットに移行・拡散する形で消滅した。時期を同じくして鬼畜系/悪趣味系に属するサブカルチャー雑誌の廃刊や路線変更が相次ぎ、1999年の『危ない28号』廃刊をもって悪趣味ブームは完全に終焉を迎えた。
--- 鬼畜系 - Wikipedia
2010年7月23日午後5時頃、村崎は読者を名乗る32歳の男性に東京都練馬区羽沢の自宅で48ヶ所を滅多刺しにされ殺害された[2][17]。48歳没。
--- 村崎百郎 - Wikipedia
2019年(平成31年・令和元年)
3月4日 - ロマン優光が悪趣味ブームと90年代サブカルに関する手引き書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)を刊行。出版に至った動機についてロマンは「90年代サブカルという特殊な文化を今の価値観で振り返り、怒り狂っているヤバい単細胞が昨今目立ちます。彼らによる考察ならびに反省は、一見まともでも的を射ていないものが実に多く、世間に間違った解釈を広めてしまう害悪でしかないのです」と同書袖で語っている。
3月15日 - 香山リカ『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー 根本敬論』(太田出版)刊行。『HEAVEN』編集者時代の自身の経験と特殊漫画家の根本敬を主軸に90年代サブカルと平成末期のヘイト現象を論じる試み。
--- 鬼畜系 - Wikipedia
1990年代中頃に隆盛を極めたこの文化は、2000年代、そして2010年代を経る中で、その記憶や土壌といったものを急速に失っていったのだろう。
故に、ロマン優光、そして香山リカが2010年代の終わりに、90年代を語る必要に迫られたのではないか。
特に2010年代、鬼畜系というものが過去になりつつある中、「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は日毎にその「ヤバさ」を増していったと言っていいはずだ。
そしてふと気づけば、誰がどう触れても確実に炎上する最悪の爆弾と化してしまっていた。
「どう対処していいか分からなかった」
2010年代にもまた、一定のリアリティがありそうだ。
しかしこの特殊な文化、どういう背景を伴いながら生まれたのか。
売れるから、望まれているからといった打算的な動機しかなかったのか。
ジョージ秋山
ところで赤田祐一は、極めて早い段階でジョージ秋山へ言及している。
ジョージ 秋山( - あきやま、本名:秋山 勇二(あきやま ゆうじ)、1943年〈昭和18年〉4月27日 - 2020年〈令和2年〉5月12日)は、日本の漫画家。
--- ジョージ秋山 - Wikipedia
昨年お亡くなりになった漫画家・ジョージ秋山先生は、生前、うっすらとですが、仕事でおつきあいをさせて頂いた恩人の一人です。(ご冥福を、深くお祈りします)
(中略)
発表当時、「花のよたろう」を私は、いわゆるギャグ作品の範ちゅうと考えて、毎号、エンタメとして愛読していました。しかし現在、自分が還暦間近になり、年を経て同作を読み返すと、若い時分は気づかなかった子どもたち同士の微妙な心のバランスや、「人間とは何か」という作者の問いへ思いを馳せるようになり、「これはただのギャグマンガではない」と気づかされ、ジョージ作品のあつみやふくらみを、遅まきながら理解するようになりました。
私は音楽家・小山田圭吾さんを、ジョージ先生が少年漫画で描き続けてきたような〝隅の人〟と関わり合うことを厭わないタイプの人──と認識する立場に立ちます。今回、発表後約26年ぶりに小山田さんの話(『クイック・ジャパン 3号』太田出版刊 1995年8月1日発行)を読み返し、改めて、小山田さんをそのように感じました。
--- 7月30日 赤田祐一 「いじめはエンターテイメント」ではない
…なぜ、「ジョージ秋山」なのか。
アシュラ
『アシュラ』は、ジョージ秋山の日本の漫画作品、及びそれを原作にしたアニメ映画。◯肉食などの過激な描写に世間の非難が殺到した最大の問題作でもあった。
--- アシュラ (漫画) - Wikipedia
私が「ジョージ秋山」と聞いてまず思い出すのは「アシュラ」でありそして、現在も繰り返される「ある問題提起」だ。
有害図書問題
第1話には飢餓による地獄絵図、○肉を食べ、我が子までをも◯べようとする女の描写がある。これを掲載した1970年32号の『週刊少年マガジン』は神奈川県で有害図書指定され、未成年への販売を禁止。各自治体もそれに追随し社会問題に発展した。作者の秋山にも取材が殺到し、一躍時の人になった。これを受けて企画意図の釈明文が1970年34号で掲載され今後の主人公が宗教的世界に目覚め人生のよりどころを確立することが説明されていたが、結局、描かれないまま最終話をむかえた。しかし、『週刊少年ジャンプ』(集英社)1981年26号に読み切りで完結編が掲載されその結末では実現している。
--- アシュラ (漫画) - Wikipedia
「アシュラ」が「有害図書問題」へ組み込まれたのは1970年代だ。
警察も取締り強化に本腰
警察庁も腰をあげた。九一年一月二一日までに全国の警察本部に販売実態を把握して知事部局に条例で有害図書に指定するように働きかけ、条例違反の取締りを強めるように通達した。
--- 「有害」コミック問題を考える 置き去りにされた「性表現」議論(創出社、1991年) 17p
そして、「小山田圭吾2万字インタビュー」「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が収録された90年代の特に初めは、某事件の影響もあったのだろう、「有害図書問題」が再燃していた時期でもあった。
ある当事者の言葉
まんがにおける「環境破壊」も
大塚 僕自身もある種たかをくくっている面はあるのだけれど、最近の動きをみていると、一方で、あれ、これは行くところまで行っちゃうのかな、という感じもありますね。
村上 まんがにおける環境破壊みたいなことが、まあ地球消滅までは行かないにしても、起こりかねない。
例えば成人指定のマークをつけることにしても、あれを実際にやると、書店の棚構成が全く変わってしまうでしょう。対応できない書店の場合は、めんどうくさいから返本しちゃえ、ということになる。
大塚 まんが以外の雑誌や小説にも、あのマークがあっさり流用されていくことにもなりかねない。既成事実としてね。
編集の方も、大手出版社の場合は、めんどうくさいから危なそうなものはやめちゃえ、となる。
--- 「有害」コミック問題を考える 置き去りにされた「性表現」議論(創出社、1991年) 84-85p ●対談「有害」コミック騒動とまんがの現在 村上知彦/大塚英志(まんが評論家)
大塚英志が当事者として(?)、「有害図書問題」が「まんが」、そして「表現の自由」へどういう影響を与え得るのかを語っている。
しかしてこの懸念は、漫画から離れた所で、「CEROレーティング(コンピュータエンターテインメントレーティング機構 - Wikipedia)」という形を取り現実の物となる。 「漫画原作のゲーム」というものがレーティングの支配下にある以上、「ゲーム化を視野にいれるならば」、まさに大塚英志の予言の通りになりつつある。
表現の自由
悪趣味・鬼畜系といった特殊な文化が必要とされた背景はともかく、それを後押しする要因として、表現の自由のためというものがあったのだろうか。
根本敬と村崎百郎が「日本を下品のどん底に突き落としてやりたい」と心の底から叫ばねばならないほど1990年頃の日本は抑圧的なオシャレと健全さと明るさと偽善のファシズムに支配されていた。それを知らない人が悪趣味や鬼畜カルチャーを批判しないでほしい。 https://t.co/N5Etah5EnC
— 町山智浩 (@TomoMachi) July 20, 2021
…町山智浩の発言の背景には、そんな90年代があるのかもしれない。
県警が捜査に動きだしたのは、九〇年九月十一日の熊本日日新聞夕刊「ハイこちら編集局」欄に載った電話による相談だという。「いかがわしい漫画本 ビックリ」と題されたその相談の主は「飽託郡天明町、主婦、37」とある。
<子供用のまんが本とばかり思って中を見たら、中、高校生が主人公で、グループで暴行するいかがわしい場面の連続で、びっくりしてしまいました。(中略)表紙は子供向けのかわいらしい題名に制服姿の絵などで、とても、その内容を想像できないものです。少年犯罪に影響がでないか、心配しております。取締などできないんでしょうか>
--- 「有害」コミック問題を考える 置き去りにされた「性表現」議論(創出社、1991年) 30p
表紙を少女まんがふうに
(中略)
実をいえばこの手口なども当時、ぼくやぼくの同業だった人々が考え出したものなのである。「有害」指定を受け易いコミックというのは一定の傾向があった。その表紙にいかにもいかがわしい女性の裸体が描かれている、誰がどう見ても「エロ雑誌」としか思えない雑誌が、当然のことながら摘発や指定の対象となっており、ならば「一見そう見えない表紙にしてしまえ」というのがぼくらの悪知恵だった。
(中略)
今回の「有害コミック」もそうだが、普通のまんがと間違えて買うほど読者の目は節穴ではない。その点でお互いに確信犯なのだ。
--- 「有害」コミック問題を考える 置き去りにされた「性表現」議論(創出社、1991年) 158-160p 作動しなかった「規制」と「自由」の曖昧な合意装置 大塚英志(まんが評論家)
…ん?
そのままにしてしまった残酷
90年代の有害図書問題に端を発する表現の自由に対する危機感が生んだ焦り、そして、2000年代のネットで大きな影響力を持っていた「(無法で)自由なインターネット」という背景。
さらにインターネット自体の脆弱さや未熟さ、ネット上の炎上や問題を取り扱う経験の不足、人材の欠如。
2010年代、鬼畜系というものの記憶が薄れる中で、その意味が大きく変わってしまった両記事。
そのままにしてしまった残酷というものの背景を、私なりに少し掘り下げてみた。
…が、やはりどこかで対処しておくべきだったのだろうという思いは変わらない。
結果そのツケは、最悪の場にて最悪の形をとりながら小山田圭吾自身へ降りかかる。
盛大に蒸し返された残酷
悪趣味という一時代の喪失すらをも忘れ迎えた2021年夏、小山田圭吾はオリンピック・パラリンピックを舞台に炎上する。
痛烈なバッシングを伴った世界的な炎上であったと言っていいだろう。
そして、東京2020大会組織委員会はその任命責任や説明責任といった物を半ば放棄し、小山田圭吾を矢面に立たせ続けた。
そもそも契約書すら曖昧な状況で、なぜ小山田圭吾の参加が発表されたのか。
「30年近くの時を経て盛大に蒸し返された残酷」
小山田圭吾炎上の極めて初期に、北尾修一は「いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた?」という記事を公開した。
その内容に対しては様々な見解があるだろう。
北尾修一が言うように「90年代には許されていた?」のだろうか。
仮に私が「許されていたのか?」と問われれば、「フィクションとしてなら許されていた」と答えるだろう。
問題は、両記事がフィクションとノンフィクションの狭間で書かれていたことだ。
当然、誰かが記事を読むとき、その狭間はひどく曖昧に揺れ、読まれ方には濃淡が生じる。
ノンフィクションとして読むほうが悪いのだ、あるいはフィクションとして読まないほうが悪いのだ。
そう言ってみたところで、そう「読みたい」人物はやはりそう読むだろうし、そうとしか「読めない」「読まざるをえない」人物もまたそう読むだろう。
2020年代の現在、そう読まれてしまう事自体に不思議は無く、むしろそう読まなければならない空気すらあると言って良いはずだ。
2000年代、そして2010年代を経て、「悪趣味」は単なる悪趣味で済まなくなり、「鬼畜」は単なる鬼畜となってしまったのではないか。
1990年代の悪趣味文化とはもはや、その都度わざわざ説明されなければならないほどに過去の物なのだろう。
つまりは「そういう時代だった」という類の説明にある背景を紐解けば、悪趣味という当時の特殊な文化とその軌跡がそこにある。
そして不幸にもあの炎上の当時、そういう背景を共有するということは、到底叶わなかった。
この背景を無視し、それを踏まえないままに話を進めた所で、1990年代から目を背けた言い訳以外の何物でもない。
そして2020年代、2030年代とさらに時を重ねるごとに、両記事の意味もまた変わって行くだろう。
どう読まれるようになるのだろうか。
よもや悪趣味という文化が再び息を吹き返し、その土壌の元にて再び読まれるようになるのだろうか。
それとも、またしても背景不在のままに両記事が独り歩きし、そう読まれてしまう事を繰り返すのだろうか。
小山田圭吾問題を仔細に追えば、いくつかの死にすら触れざるを得ない。
この問題は、暗く、陰惨でありながらも鮮烈な残酷というものにその全てを支配されている。
それを誰がどう取り繕うとも、露悪の徒花を隠し通す事は叶わないのだろう。
何を何処で間違えたか、30年近くを経た因果はその炎上後、様々な誰かしらの様々な思惑や業をこれ幸いと好き勝手に詰め込まれ、蠱毒の如きものへとその姿を変えつつあるのかもしれない。
あまりに拗れてしまった残酷に、どう向き合うべきなのか。
根本敬風に言えば、小山田圭吾もまたこの因果宇宙に囚われた一人の人間であったというところだろうか。
終幕
さて、不道徳教育講座には、いろんな形の悪、あるいは悪らしきもの、いろんな形の悪人、あるいは悪人らしきものが登場しましたが、これは、新聞の三面記事同様、人間に、悪に興味をおぼえ悪がよく目につく性質があるかぎり当然のことです。電車の中で、かわいらしい女学生が、十五人もの人間が次々に殺される推理小説を、一心によみふけっているのを見て、誰か慄然としない者があるでしょうか? そして困ったことに、悪はどうしていつも美しく見えるのでしょうか?
が、安心していいことは、悪が美しく見えるのは、われわれがつまり悪から離れていることであって、悪の只中にどっぷり浸かっていたら、悪が美しく見えよう筈もありません。悪が美しく見えるのは、神々の姿がよく見えるようになる前兆なのかもしれない。人間は進歩するにつれて、身辺いたるところにたえず悪を見出すが、悪が悪のままで見えよう筈もなく、丁度赤と緑のガラスの眼鏡をかけて見ると、もやもやしたわけのわからない模様の上にはっきりした像があらわれるあの子供の好きな魔法の本のように、美の眼鏡をかけて見ると、初めてそれが見えてくる。これは私の説ではなく、ローマの哲学者プロティノスの説を、私流に解釈したものであります。
--- 「不道徳教育講座」 335p (三島由紀夫、角川文庫)