「いじめの矮小化」「矮小化されたいじめ」、嫌な言葉だ。
そして、良く分からない言葉だ。
これが、21年末辺りからだろうか小山田圭吾問題の中でひっそりと語られ始めた。
私は小山田圭吾のいじめ問題を21年7月中旬の小山田圭吾辞任についてのニュースで知った。そして私はその問題を、北尾修一による21年7月20日連載開始の記事「いじめ紀行を再読して考えたこと」辺りから、割と適当に22年1月現在まで追いかけ続けている。
その上で私から、はっきり言わせていただこう。
小山田圭吾擁護の文脈において「いじめの矮小化」なぞは腐るほど見てきた。
「いじめの矮小化」まずは大まかな意味を捉えておこう。 といっても字面の通り、いじめを過小に評価することを繰り返し、最終的にいじめはなかったとする流れのことだ。 当然これは私にとっての「いじめの矮小化」だ。
なぜいじめを矮小化するのか
小山田圭吾本人が「いじめの矮小化」を望んでいるのか、それはわからない。
まあ望んでいたとして、そしてそれが露見したとして、少なくとも私が、そして世論が、それをどう思うかは言うまでもないだろう。
小山田圭吾擁護派により盛んに行われているいじめの矮小化、当然当人達は小山田圭吾のためというつもりでやっているはずだ。小山田圭吾のため手段を選んではいられないということか、それが如何に醜悪な姿か自覚はあるのだろうか。
小山田圭吾自身の声明をも軽んじながら、小山田圭吾擁護派はなぜいじめを矮小化するのか。
忘れられる権利のためだ、なるほど。しかし小山田圭吾は自らの声明の中でいじめを認め、その過去を乗り越えようとしている。「いじめを矮小化」する事はつまり、小山田圭吾のそれまでの苦悩や葛藤、そして小山田圭吾の謝罪や贖罪までをも矮小化する事に等しい。忘れられる権利、そう何度も使えるものでもないだろう。小山田圭吾が過去を乗り越えられなかった時、小山田圭吾本人がそう望んだ時にこそ用いられるべきではないのか。ちなみに当然望んでいるだろうというお前のそれは勝手な思い込みだ。
やっていないことまでやったとして謝罪するのはおかしいからだ、なるほど。では、やったことまでやっていないとして謝罪の意味を上書きする事はおかしくないのか。デマを訂正するまではまだ良いだろう、しかし、デマでは無いものにまで手を出すのは一線を超えている。
残念ながら「きれいな小山田圭吾」はもう戻ってこない。 戻ってくるのは、「クソにまみれながら過去を乗り越えた小山田圭吾」か、「クソにまみれながら過去を乗り越えられなかった小山田圭吾」だ。 「きれいな小山田圭吾」を望んでいる、というのなら話はまだマシだ。 小山田圭吾擁護派は、小山田圭吾がどうとかではなく、小山田圭吾のファンであるところの自分たちが世間からどう見られているかという点しか考えていないのではないか。 故に平然と小山田圭吾の声明すら無視することができ、小山田圭吾と共に問題へ真正面から向き合うという選択ができないのではないか。 小山田圭吾にさしたる興味もない私のほうがまだ小山田圭吾の声明を尊重しているという現実にいい加減気づくべきだろう。
それはフェイクか
「いじめの矮小化」、私に言わせればフェイクの類だ。
例えば非常に典型的ないじめがあったとしよう。それをひたすら言い換えて、例えば「一日一回ペチっとする」という所に至ったとしよう。 「一日一回ペチっとする」、いじめだろうか。 微妙なところだ。ではどこで元々のいじめは、いじめであるか微妙なものとなったのか、つまりはどこでフェイクとすり替わったか。 それは読み手により違うだろう。しかし少なくとも、どこかでいじめはフェイクとすり替えられている。
そして、「小山田圭吾擁護はいじめの矮小化というフェイクにまみれている」という類の批判が、妥当な手段で妥当な人物から出たらどうなるだろうか。 そしてその批判が妥当な物と世論に受け入れられ、小山田圭吾が再び炎上したとしたら。 私には、そこからの再起は正直、絶望的であるようにすら思えるが、小山田圭吾擁護派はいじめの矮小化をひたすら平然と繰り返してきた。こうまで繰り返されると、小山田圭吾擁護派が平気だと思うのなら平気なんじゃないかという気分にすらなってくるから不思議なものだ。 え?そんな事はそもそも考えていなかった?炎上したらその炎上に向けてそう言ってみればいい。
雑に言ってしまえば「いじめの矮小化」が行われているという疑義が出た時点でそれは最早、「正確ではない」と言われるに等しく、つまりはフェイクの類ということになる。 そして当然、その類のフェイクが強烈な反感を生み出すことは言うまでもない。
なんとまあやっかいなものではないか。
そもそも「いじめの矮小化」とは
(自称)北尾修一非公式ファンクラブの公式サイトであるところの私のサイトではあるが、たまにはこんな題材も扱うのだ。 こんなヨタブログでこんなマトモな題材を扱う日がまさかくるとは。北尾修一も密かに涙しているに違いない。まあそれはどうでもいい。
「いじめの矮小化」、曖昧な表現だ。 人の数だけ解釈があってもおかしくない類の表現にも見える。 しかしあえて、私にとっての「いじめの矮小化」を語らせてもらおう。
まず私にとっての「いじめの矮小化」という言葉は、「いじめの記号化」という言葉と対になっている。
どういうことか。
声明にあるいじめ
小山田圭吾がその声明の中で、いじめの描写を交えてまで言及した「いじめ」がある。
今にして思えば、小学生時代に自分たちが行ってしまった、ダンボール箱の中で黒板消しの粉をかけるなどの行為は、日常の遊びという範疇を超えて、いじめ加害になっていたと認識しています。
--- 9月17日 小山田圭吾 【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】
「ダンボール箱の中で黒板消しの粉をかけるなどの行為」
小山田圭吾擁護の文脈でこれはどう語られているか。
「黒板消しをパタパタした」とか「黒板消しの粉をかけた」とかそんな感じで語られている。当然、「黒板消しをパタパタしただけじゃん」とか「黒板消しの粉をかけただけじゃん」とかそんな感じの発言に組み込まれて、だ。
21年7月の小山田圭吾炎上は、数十年前の雑誌に掲載された小山田圭吾へのインタビュー記事が五輪の場に相応しくないと問題視された結果だ。 「小山田圭吾2万字インタビュー」、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」、この両記事がなければ、小山田圭吾の炎上もまた無かった。
「ダンボール箱の中で黒板消しの粉をかけるなどの行為」、この原文はどのようなものか。
「段ボールとかがあって、そん中に沢田を入れて、全部グルグルにガムテープで縛って、空気穴みたいなの開けて(笑)、『おい、沢田、大丈夫か?』とか言うと、『ダイジョブ…』とか言ってんの(笑)。そこに黒板消しとかで、『毒ガス攻撃だ!』ってパタパタってやって、しばらく放っといたりして、時間経ってくると、何にも反応しなくなったりとかして、『ヤバイね』『どうしようか』とか言って、『じゃ、ここでガムテープだけ外して、部屋の側から見ていよう』って外して見てたら、いきなりバリバリ出てきて、何て言ったのかな……?何かすごく面白いこと言ったんですよ。……超ワケ分かんない、『おかあさ~ん』とかなんか、そんなこと言ったんですよ(笑)。それでみんな大爆笑とかしたりして」
「本人は楽しんではいないと思うんだけど、でも、そんなに嫌がってなかったんだけど。ゴロゴロ転がしたりしたら、『ヤメロヨー』とか言ったけど」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 057p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
さて、どこが問題視されたのだろうか。
ダンボールの上からガムテーブで縛った事だろうか。 それとも、黒板消しで毒ガス攻撃だ!とパタパタやった事だろうか。 あるいは、『おかあさ~ん』と言った事を大爆笑した事だったりするのだろうか。 または、このいじめを商業的に扱った事、いや、このいじめをこのような語り口で語った事自体だろうか。 もしくは、これら全て。
このいじめは小山田圭吾が小学生当時所属していた太鼓クラブの活動中に行われた。
それで太鼓クラブに入ったんですけど、するとなぜか沢田が太鼓クラブにいたんですよ(笑)。本格的な付き合いはそれからなんですけど、太鼓クラブって、もう人数五人ぐらいしかいないんですよ、学年で。野球部とかサッカー部とかがやっぱ人気で、そういうのは先生がついて指導とかするんだけど、太鼓クラブって五人しかいないから、先生とか手が回らないからさ、『五人で勝手にやってくれ』っていう感じになっちゃって。それで音楽室の横にある狭い教室においやられて、そこで二時間、五人で過ごさなきゃならなかった。五人でいても、太鼓なんか叩きゃしなくって、ただずっと遊んでるだけなんだけど。そういう時に五人の中に一人沢田っていうのがいると、やっぱりかなり実験の対象になっちゃうんですよね」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 056-057p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
毎週、土曜日の二時間、教師不在の場にて「実験」が行われていた。
「太鼓クラブとかは、もうそうだったのね。体育倉庫みたいなところでやってたの、クラブ自体が。だから、いろんなものが置いてあるんですよ、使えるものが。だから、マットレス巻きにして殺しちゃった事件とかあったじゃないですか、そんなことやってたし、跳び箱の中に入れたりとか。小道具には事欠かなくて、マットの上からジャンピング・ニーパットやったりとかさー。あれはヤバイよね、きっとね(笑)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 061p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
これをいじめではないとするならば、小山田圭吾はなぜ「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の中でこれを語ったのか。
今にして思えば、小学生時代に自分たちが行ってしまった、ダンボール箱の中で黒板消しの粉をかけるなどの行為は、日常の遊びという範疇を超えて、いじめ加害になっていたと認識しています。
--- 9月17日 小山田圭吾 【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】
そして小山田圭吾は声明において「黒板消しの粉をかけるなどの行為」と、黒板消しの粉をかける以外のいじめについても言及している。「など」には、マットレス、跳び箱、ジャンピング・ニーパットも含まれているのだろう。
記号化され矮小化されたいじめ
これが、「黒板消しをパタパタした」とか「黒板消しの粉をかけた」として語られるいじめの正体だ。 そしてこれが、「黒板消しをパタパタしただけ」でも「黒板消しの粉をかけただけ」でもない事は最早明らかだろう。 小山田圭吾の声明に「などの行為」とあるのだから「しただけ」でも「かけただけ」ではない、そんな言葉遊びの次元においてすら「しただけ」でも「かけただけ」でもないのだ。
しかし現実に、小山田圭吾擁護の文脈において、「黒板消しをパタパタしただけじゃん」とか「黒板消しの粉をかけただけじゃん」として盛んに語られている。
「黒板消しをパタパタした」とか「黒板消しの粉をかけた」という言葉の背景には、膨大な細部がある。
いじめ自体、太鼓クラブ、沢田(仮)、某学園、当時の世相… それらを無視し、「黒板消しをパタパタした」とか「黒板消しの粉をかけた」が小山田圭吾によるいじめだと言えば、「黒板消しをパタパタした」とか「黒板消しの粉をかけた」が「小山田圭吾によるいじめ」になる。 そしてその細部はいつか語られなくなり、小山田圭吾のいじめはいつか「小山田圭吾のいじめ」というただの記号になる。 細部を削ぎ落とし、「いじめを記号化」しているのだ。
何を削ぎ落とすか、そこに意図の介在する余地がある。
その意図は、より穏便に、より子供のじゃれあいらしく見えるように、という物だ。 小山田圭吾の声明にある「ダンボール箱の中で黒板消しの粉をかけるなどの行為」という言及における「など」をあえて無視するのもまた、細部を削ぎ落としている事に他ならない。 「など」を削ぎ落とせば、「黒板消しをパタパタした」以外のいじめを削ぎ落とせる。 この意図は明らかだろう。「小山田圭吾のいじめ」を「黒板消しの粉をかけた」程度にしたいからだ。 そしてその上で、「黒板消しの粉をかけた」と額面どおりに、都合よく解釈し、結果としていじめを矮小化する。
都合よく細部を削ぎ落とし記号化し、都合よくそれを解釈し矮小化する。
これが、私にとっての「いじめの記号化」であり、それを伴う「いじめの矮小化」だ。 反論としては恐らく、いじめの描写を避けるため、著作権への配慮、文字数、そこらへんだろうか。 実際、小山田圭吾擁護派はそこら辺を都合よく使いまわし、記号化に励んだ。
「黒板消しをパタパタしただけじゃん」「黒板消しの粉をかけただけじゃん」
黒板消しの粉をかけただけでキャンセルされたとすれば、それは大問題だ。
しかし小山田圭吾は黒板消しの粉をかけただけでキャンセルされた訳ではない。
そしてどうやらただのキャンセルカルチャーでもなさそうだ(参考リンク:「狡知 16 「キャンセルカルチャー」 | 敬称略雑記」)。
学生当時、私が傷付けてしまったご本人に対しましては、大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたいと思っております。
--- 東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして
小山田圭吾はいじめた自覚があったからこそ声明で、いじめをいじめと認め、強く自己批判をした上で、妥当に配慮し、そして謝罪したいという意志を示したのではないか。 では小山田圭吾擁護派はいじめ被害者へ、妥当に配慮したか。 居なければ、黙ってろ、出てくるな、小山田圭吾擁護派のやり方からはそんな思いしか伝わって来ない。小山田圭吾のためにいじめ被害者を平然とキャンセルする小山田圭吾擁護派を私がどう思っているか、まあ好き勝手ご想像頂きたい。 私はこれでも、小山田圭吾擁護派構成員にも最低限の良識くらいはあるだろうという前提の上で解釈を重ねている。 それを裏切らないで頂きたいものだが、まあそれはいい。
その典型
例えばこの「Wikipedia編集履歴」に注目してみよう。 小山田圭吾擁護の界隈で何が起こっているか、大変に分かりやすい例だ。
編集前「小山田は小学生時代から多年に渡り障害者の児童生徒に対していじめ、虐待、暴行を行ったと告白しており」
編集後「小山田は小学生時代にいじめ行ったと告白しており」
さて村田(仮)はどこへ消えたのか。
「村田は小学校の頃からいたんですよ。こいつはちょっとおかしいってのも分かってたし。だけど違うクラスだったから接触する機会がなかったんだけど、中学に入ると、同じクラスになったから。で、様々な奇行をするわけですよ。村田っていうのは、わりと境界線上にいる男で、やっぱ頭が病気でおかしいんだか、ただバカなんだか、というのが凄い分かりにくい奴で、体なんかもちっちゃくて、それでこいつは沢田とは逆に癇癪が内に向かうタイプで。いじめられたりすると、立ち向かってくるんじゃなくて、自分で頭とかを壁とかにガンガンぶつけて、『畜生、畜生!』とかいって(笑)、ホントにマンガみたいなの。それやられるとみんなビビッて、引いちゃうの。『あのひと、やばいよ』って」
(略)
「段ボールの中に閉じ込めることの進化形で、掃除ロッカーの中に入れて、ふたを下にして倒すと出られないんですよ。そいつなんかはすぐ泣くからさ、『アア~!』とか言ってガンガンガンガンとかいってやるの(笑)。そうするとうるさいからさ、みんなでロッカーをガンガン蹴飛ばすんですよ。それはでも、小学校の時の実験精神が生かされてて。密室ものとして。あと黒板消しはやっぱ必需品として。〝毒ガスもの〟として(笑)」
「(略)全然、沢田なんかよりも普通に話せるしね。普通に話とかも全然できるしね。体がおかしいとか、障害があるような、そういうタイプでもないっぽいんですよ」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 062-063p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
編集後では小学生時代のいじめにしか言及しておらず、中学生時代の村田(仮)へのいじめが無視されている。
平然と、村田(仮)を無かったことにする。
「小山田圭吾のため」にそれをやるのか、頭を抱えたくなるという表現はこういう時にこそ使うべきなのだろう。
さらにその典型
小山田圭吾擁護派のやり方は至極単純だ。 まずはあらを探し、それが間違いであるという印象を植え付ける。 その上で「実はこうだ」とそれが「ファクト」であるかのように、都合の良い情報を提示する。
小山田圭吾擁護派による渾身の「ファクトチェック」サイトから引用してみよう。
毎日新聞記事の誤り: いじめの期間
毎日新聞はQJ誌の写真とともに小山田氏が「長年にわたって」「小学校から高校で」「障害があるとみられる同級生をいじめていたと告白した」と報じたが、
2冊のインタビュー記事には「小学校から高校に渡っていじめた」という記述は存在しない。
--- 「2021年夏に起きた小山田圭吾氏いじめ記事炎上問題について 時系列の整理とファクトチェック|if you’re here.」
毎日新聞の記事に難癖をつけるのは小山田圭吾擁護派のアイデンティティとすら言える部分だ。 さて私はこれまで、沢田(仮)と村田(仮)のいじめに連続性があることを示した(参考リンク:「狡知 14 「深層 後編 前編」 | 敬称略雑記」)。 小学生時代の実験精神が生かされたって話だ。 まず小学校から中学校は繋がった。
問題は高校時代だ。
小山田圭吾擁護派による渾身の「ファクトチェック」サイトからさらに引用を重ねよう。
障害のある同級生の沢田さん(仮)について原文には小山田氏の発言として「いじめてたっていうのは小学生ぐらいで、もう中高になると、いじめはしないんだけど…どっちかっていうと仲良かったっていう感じで」と記述されており、毎日新聞の報道と食い違う。
--- 「2021年夏に起きた小山田圭吾氏いじめ記事炎上問題について 時系列の整理とファクトチェック|if you’re here.」
さてこの引用は恣意的だ。 原文を引用しよう。
肉体的にいじめてたっていうのは、小学生ぐらいで、もう中高ぐらいになると、いじめはしないんだけど……どっちかって言うと仲良かったっていう感じで、いじめるっていうよりも、僕は沢田のファンになっちゃってたから。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 057p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
なぜ小山田圭吾は誌面で、「肉体的に」と断りを入れたのか。 そしてなぜ、小山田圭吾擁護派はその「ファクトチェック」サイトで「肉体的に」という表現を削ったのか。
繰り返そう、小中におけるいじめの連続性についてはすでに示した(参考リンク:「狡知 14 「深層 後編 前編」 | 敬称略雑記」)。
沢田はね、あと、何だろう……〝沢田、ちょっといい話〟は結構あるんですけど……超鼻詰まってんですよ。小学校の時は垂れ放題で、中学の時も垂れ放題で、高校の時からポケットティッシュを持ち歩くようになって。進化して、鼻ふいたりするようになって(笑)、『お、こいつ、何かちょっとエチケットも気にし出したな』って僕はちょっと喜んでたんだけど、ポケットティッシュってすぐなくなっちゃうから、五・六時間目とかになると垂れ放題だけどね。で、それを何か僕は、隣の席でいつも気になってて。で、購買部で箱のティッシュが売っていて、僕は箱のティッシュを沢田にプレゼントしたという(笑)。ちょっといい話でしょ?しかも、ちゃんとビニールひもを箱に付けて、首に掛けられるようにして、『首に掛けとけ』って言って、箱には沢田って書いておきましたよ(笑)。それ以来沢田はティッシュを首に掛けて、いつも鼻かむようになったという。それで五・六時間目までは持つようになった。かなり強力になったんだけど、そしたら沢田、僕がプレゼントした後、自分で箱のティッシュを買うようになって」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 059-060p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
自分や家族がこれをやられたら、と、想像していただきたい。 他人が、ではない。
そしてこのような「ちょっといい話」が結構あるらしい。
そう小山田圭吾擁護派はこれを美談とか、文字通りに「ちょっといい話」と解釈しているのだ。
しかしこれは「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」だ。 首に掛けた理由も、沢田(仮)って箱に書いた理由も、まあそういう事だろう。
美談として解釈すれば、または、「肉体的にいじめていたのは」と限定すれば、「小中高に渡っていじめていた」という毎日新聞報道の表現に難癖を付けられる。 「小中高に渡っていじめていた」のではなく「小中に渡っていじめていた」のだ、と。 その上でさらに村田(仮)を無視すれば「小学生時代にいじめていた」のだと矮小化することが出来る。
小山田圭吾擁護派がその「ファクトチェック」サイトにおいて「肉体的に」という表現を削ったその心理、私にとっては唾棄されて然るべきものの類だ。
何をやっているのか全て理解した上でやっているのだろう。
これらが全て「小山田圭吾のため」というのだから驚きだ。
小山田圭吾擁護派は何をしようとしているのか
さて今回、大長編「狡知」シリーズを差し置き存分に小山田圭吾擁護派をディスった。 個人的に、看過しかねる動きがあるからだ。
22年1月後半現在、小山田圭吾擁護派は山崎洋一郎にその熱い視線を注いでいる(参考リンク:「なぜ山崎洋一郎を擁護する動きがあるのか|ヤマタカシ|note」)。
QJを美談として無かった事にした上で山崎洋一郎へキャンセルを仕掛け、そこで山崎洋一郎の平謝りでも引き出せれば、「きれいな小山田圭吾」の出来上がりだとでも思っているのだろうか。
…なかなか考えさせられる動きじゃあないか。