序
2021年7月、小山田圭吾は過去のいじめ問題が炎上し、東京五輪への楽曲制作への参加を辞任した。 10月半ば現在、当初報道にあったデマ等は是正されつつあるが、小山田圭吾自身の復帰は覚束ない。 9月には新たな動き(文春でのインタビュー、コーネリアス公式サイトでの声明)があったが、世間の反応はいまいち。 時間が助けてくれるか、そのまま消え去るか、あるいは大逆転が、という瀬戸際にあるのだろうか、妙な静けさだけが有る。…忘れられているだけかもしれないが。 そんな中、人は、言語道断と批判し続けたり、達観し、一生ウンコバックドロップ言われ続ける人生もなんだかんだとマントラを唱えてみたり、希望の炎を燃やし続け、小山田圭吾の名誉回復運動に勤しんだりしている。
「ある一般人は、小山田圭吾の問題をどう追いかけたか」
記憶が実感を残す内に、何かしらを残しておこうと思う。 「自分はどう追いかけたか」との違いを探るため読んでほしい。
そして最終的に言いたいことが、ある。
全体がどの程度になるかは分からない。 主観も間違いも誤解もクソも全部ある、すごいね。 極力正確さには気をつけるつもりだが、明らかに間違っていたらひっそりご指摘ください。善処致します。 その際は何をどう間違ったか残すため加筆修正という形を取ろうと思う。
広い意味での小山田圭吾問題を語るときに、小山田圭吾圭吾が辞任した直後に公開された、北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと」を無視することは出来ない。 が、現在有料でありこれを読めと勧める事はなかなか難しい状態にある。 北尾修一の記事がこれからも有料を保ち続けるのか否か、それはわからない。 いまでも記事は大きな意味を持っていると確信する。 むしろ容易に読めない事こそが、その意味を大きくし続けている。 読んだ層と読んでない層が実質固定化されている、少なくとも好ましい物ではない。 抜粋・要点だけでも公式に無料公開されていればな、とは強く思う。
今回これを書くにあたり、重要な物を除き、基本的には過去の記事を再度読んだりはしない。 世論を形成する一般人が記事をもう一度読むだろうか。読むわけがない。 私を含めた「一般人」がどの程度の解像度にあるのか、参考にしてもらいたい。
同時に、あれはやったがあれはやってない等、いじめの仔細を検証する事はしない。 この問題の本質は、少し、違うところにあると考えるからだ。 デマ訂正には微力ながら協力させていただきます。
私自身は音楽や小山田圭吾、その周辺のカルチャーに関して悪いけど心の底から詳しくないし大した興味もない。 そんなんが語るなよっていうそれ。
それが問題なんだよ。