小山田圭吾のおもてなし
ところで私は五輪反対派である。
小池百合子が会見で東京湾の生水を飲むくらいのパフォーマンスは必要だったと今でも思っているほどの五輪反対派である。
五輪反対と小山田圭吾批判、意外と語られていないように見える。
五輪反対派に小山田圭吾はどう使われていたのか、思うことを書き残しておく。
五輪反対とは何だったのか
周知のことでは有るが、2021年の夏、五輪への反対という声は非常に大きかった。 五輪開催への賛否は半々程度だったと記憶している。 少なくとも世論は、開催を歓迎していなかった。 コロナ禍での病床逼迫や、現役世代へのワクチン接種が遅れていた事、自粛を強いられる中で開催される矛盾。 政治的な立ち位置により反対するというよりも、当時の実情を考えての反対だろう。
ただそれは、政権批判により利得を得る政治的な人達にとって都合よく利用出来た。 五輪反対と言うだけで、世論が耳を傾けている所へ容易に露出することが出来た。 といっても、それほど万能な武器ではない。 オリンピックの後にはパラリンピックが控えている事を思い出して頂きたい。 東京2020五輪に反対する、ではパラリンピックにも反対するのか?という事だ。 あまり固執していては確実にそこを突かれる。 オリンピックは反対だが、開催されたからには楽しむ。 こういう謎めいた動きの正体が、実はそれである。
実際のところ、五輪反対というのはその程度にしか使えない。
五輪反対と小山田圭吾とその用法
当時、小山田圭吾を批判するという行為は圧倒的な正義であった。 批判をしなければ、どう思われるか。 そういう圧力が確かにあったように思う。 五輪賛成反対に関わらず、共通して行われていた一種の「踏み絵」であった。
五輪反対派(正確には東京2020五輪反対派)の私からすると、五輪への反対の声を上げる際に、小山田圭吾は大変「便利」であった。 「反対の声」というのは案外難しく、正義の側に立っているように見せ、法的なお叱りを受けないよう、読みやすいよう、社会的な意義があるっぽく、と、あれはあれで実は結構気を使っていたりする。びっくりだな。
結局は難癖の親類みたいなのしか出来上がらないのが常だが、必ず必要なのが「悪」。 悪がないと正義になれず、正義になれないと、難癖が反対の声になれない。 小山田圭吾の炎上はこの正義の確保にちょうど良かった。
身も蓋もない言い方をすれば、「いじめ」という3文字で済んでしまう。 「小山田圭吾」でも5文字。しかも使いやすい。
例えば、
「五輪反対!レガシーなどと虚像を作り回る歯車、いじめ対策を徹底しろ!」
何を言ってるのか自分でも分からない。 が、なんだかもっともらしい事を言ってるように聞こえる。
さらに、
「小山田圭吾を軽率にも起用した組織委員は責任をとり即刻辞任しろ」
組織委員やめろとしか言ってないんだけど、(バッシングを受けている最中の)「小山田圭吾」に言及するだけで人権問題とか深い所まで踏み込んでいるように見えて、すごく正義っぽくなる(個人の感想です
こんな適当な中身の無い文章にも、「いじめ」「小山田圭吾」、それに付随する数文字だけで、少なくとも何か言っているような感じが出てしまっていた。 15文字程度だろうか、それだけで様々な問題に対し、正義の側から言及出来た。 「使いやすい」という感覚、お分かりいただけただろうか。
深まる悪性
多くの五輪反対派にとって、小山田圭吾は単なる五輪批判のための道具であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのではないだろうか。 同時に、道具としてよりうまく使うため、懲罰的な関心とでも言うべき物が蔓延っていたのではないか。 …言語化するとタチの悪さが際立って我ながら恐れ入る。
問題は「小山田圭吾」がこう使われるたび、「小山田圭吾」は何も変わっていないにも関わらず、その悪性が深まっていく点である。 例えば3人、「小山田圭吾が関わる五輪はけしからん」と言う。 そうなると3人分の正義っぽい声で、小山田圭吾は悪であると名指しされる。 塵も積もればなんとやら、こういう効果は確かにあったと思う。 かく言う私自身も、何回か「小山田圭吾」を使った。 大変失礼致しました。
小山田圭吾を憎むのは
大半の五輪反対派にとって、小山田圭吾への思い入れなど大して無いし、なんなら(どうなっても良いという意味での)無関心に近い、これが現実だったように思える。
驚いただろうか。
それとも、そんな所だろうと思っていたと、得心が行っただろうか。
さて、五輪反対派によるかように打算的な小山田圭吾批判が、五輪が終わった後も続き得るか。 五輪の話題はもう古く、小山田圭吾を批判して得られる善性は既にほぼ絞り尽くされた。 なんならプルト君の時報でもRTしてたほうがよほどマシだ。
五輪賛成反対の中で語るなら、五輪が終わった今、小山田圭吾を心の底から苦々しく思っているのはむしろ五輪賛成派なのではないだろうか。 叩くための材料を与えやがって、そう思っているか否か、本当の所は分からない。 でもまぁ彼らの視点から見ると、むしろ同情したくなるほどの憎しみを想像できる。
あるいは賛否の枠から離れれば、こういう見方も出来る。
猪瀬直樹、なぜこの名前が出てくるのか、不思議に思うだろう。 彼は五輪招致の段階から、皇室の積極利用を推進した。 それ自体は、個人のお気持ちレベルでの是非はあるだろうが、非とまでは言えない。 そして当然、皇室を利用すればするほど、皇室と東京2020の結びつきは強くなっていった。
結果だけを見れば皇室を「ウンコバックドロップ」に巻き込んでしまったのだ。 これを看過しかねる市民は相当数いたはずだ。 実際私も、不透明な招致の過程に皇室を巻き込む事、皇室の商業的利用には疑問を覚えていた。 その上で、一連の醜聞である。 なるべくしてなったなと思いながら、さすがにウンコバックドロップは無いだろと呆然としたものだ。
…あと糞尿トライアスロン
ウンコで終わんのかよ