懲罰を求める声
小山田圭吾に関するバッシングの中には、「責任を取れ」という声が辞任直後から少なくない。
「責任」、である。
辞任し、一応の謝罪をした上でさらに責任を取れ。
小山田圭吾がウンコバックドロップされている姿を生配信しろとでも言っているのだろうか。 そういうのもまた、ひとつの形かもしれない。 謝罪にもなっていない、遊び半分のふざけた懲罰で溜飲を下げるクズも確かに一定の数、世の中にはいるだろう。
果たしてこの「責任を取れ」という声の全てがそういうクズによるもので、無視されてしかるべき物なのか?
あるいは単に罵倒の言葉として責任等と使っているのだろうか。
責任を取れという声の内、ある一部に関して、心当たりがあるので言及しておこう。
上級国民小山田圭吾
ところで私は上級国民批判派である。 書き出しに強烈な既視感があるが、まあいいだろう。
さて上級国民批判派の視点からかなり高い確度を確信しつつ言う。
不幸にも、小山田圭吾は上級国民属性を得てしまっている。
まず五輪関連に採用された経緯が不透明であった点。 私を含めた大半の国民にとって「小山田圭吾」という存在は残念ながら、「誰だっけ?」という程度なのである。 それがいきなり五輪の場に現れて勝手に炎上し果ては流れるように辞任していったようだ。 そもそもあんな炎上の仕方をする人物がなぜ五輪に、何か特殊な力が働いたに違いない、というわけである。
これは8月に入ってからだったろうか、伊藤穰一のデジタル庁における人事もその上級国民性を強調した。 小山田圭吾は伊藤穰一の「はとこ」に当たる。 伊藤穰一は過去に、ジェフリー・エプスタインからの資金提供を問題視されていた。 なんとも間の悪い、そう言わざるを得ないタイミングだし、ああやっぱ上級国民じゃあないですかと答え合わせにもなった。
上級国民であるか否か、そこで議論を尽くすのは的外れだ。 世論にとっては、「上級国民っぽい」それで充分。 上級国民とは、上級国民になるには、良く分からないしそれでいい、むしろその方が都合が良い、というのが現状である。 私には、上級国民という言葉自体がまだまだ、その変化の途上にあるように見える。
というか上級国民がウンコバックドロップなんて当然するわけがないし、なんならウンコバックドロップからは泥臭くて血生臭くて上級国民とは真逆のリアルすら感じられるわけだが、そういう冷静な判断が出来なかった辺りも上級国民という言葉が持つ魔力ゆえのものだろう。実際デマだったし。 恐ろしいことです。
それでもあえて上級国民とは
現在のシステムで裁き切れない悪事を平然と行う富裕層、とでも表現するべきだろうか。 「金」「悪」「裁けない」といったキーワードは概ね共通して連想出来るだろう。
上級国民が形成される過程において何らかの悪は必須である。 バッシングなどが伴えば、(それを目にした人達から)当人への人権意識は大変希薄になる。 さらに、上級国民とされる事は、半ば公人となるに等しく、それはそれは厳しい正義の目にさらされる。
上級国民は様々な機能を持ちうるがその中でも、ワイドショーで語られる程度の、社会的な問題などと到底言えないような(クソな)ゴシップにすら、社会的意義があるように「盛れる」点は特筆すべきだろう。 上級国民と書けば、格差社会とそれを是正できない政権への批判になる。 さらには有名税とでも言おうか、叩かれて当然という雰囲気を出すためにも使える。 「使いやすい」のだ。…強烈な既視感があるが、まあいいだろう。
飯塚幸三
上級国民問題には言及するべき先例がある。
池袋暴走事故の飯塚幸三である。
19年の夏から秋にかけて、これに関する署名活動が行われた。 この署名、そういう事があったと知る人は多いだろうが、その署名の具体的内容に関してはどうだろうか。 実は、「東池袋自動車暴走死傷事故に関し、加害者である飯塚幸三運転手に対し、出来るだけ重い罪での起訴、厳罰を強く要望いたします。」という大変に率直な内容だった。 そして、最終的に39万筆もの署名を、東京地検へ提出するに至る。
これは、世論が、量刑に影響を与えた「かもしれない」事例なのだ。 実際に与えたのか否かという点はこれから検証されるだろう。 しかし、市民の声で正義を為す事が出来る(かも)という成功体験らしき物になってしまった。
上級国民に対し声を上げれば、世の中は少し良くなるかもしれない。
多くの場合、勘違いなのだが、そう願う人は少なくない。
合意された私刑
小山田圭吾に関連するいじめ問題、数十年前の話である。当然、刑事責任だの言えない事はいうまでもない。
裁けないのである。
ならば市民が声を上げて、市民の手で裁くしかない。 飯塚幸三の時のように市民が声を上げれば、世の中が少しは良くなるかもしれない。 今回はいじめ問題だろうか。 私は正直、良いか悪いかは別として、そういう感情が分からないでもない。
仮にその声を受け、小山田圭吾が懲罰的な形で責任を取ったとして、これが私刑でなくしてなんなのか。 飯塚幸三の場合はまだ、裁判という過程を経た。 小山田圭吾にその機会はあるのか。
やっかいな事に、結果的に私刑を求めるこれらの声の根底にあるのは善意だ。
だからなんなのさ
しるか。