敬称略雑記けいしょうりゃくざっき

狡知 09 「いじめ紀行を読んで」

dawned on me

まず私達には、何かを読むに当たり、どう読むかに関する自由がある。 そして、それをどう読んだか表現する自由がある。

名文引用で始めると賢い感じが出ていいですね。

前回、どうも北尾修一が2021年7月半ばの小山田圭吾炎上の裏で何やら蠢動し何やら地雷を踏み抜いたような気がするとか書いたように思う。 今回、小山田圭吾炎上の直後に公開された北尾修一による「いじめ紀行を再読して考えたこと」(以下、北尾文書、現在有料)から少し離れ、炎上のソースとなった誌面について触れる。 小山田圭吾が配慮し、北尾修一により踏み抜かれた地雷、それは何なのか。

北尾修一ファンが送る渾身の9話目がいまここに!

2つの誌面

小山田圭吾問題における信頼できるソースは主に2つある。 「ロッキン」、「QJ」あるいは「いじめ紀行」と呼ばれ参照される誌面だ。

「ロッキン」は、ROCKIN’ON JAPAN 1994年1月号(株式会社ロッキング・オン)にて掲載された「小山田圭吾2万字インタビュー」を指す。 小山田圭吾に関する悪いイメージという物の大半がこの誌面から生まれた。 ウンコバックドロップ(デマです)、調布の超万引場所カーステ窃盗証拠隠滅失敗便所(多分デマです)、いじめアイディア提供ドキドキ大軍師(デマです?)、これらのソースとされている。 よくもまぁ考えたもんだと感心する。

「QJ」「いじめ紀行」は、Quick Japan3号(1995年8月、株式会社太田出版)の特集「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を指す。 小山田圭吾と村上清による、いじめに関する対談の記事だ。 障がい者へのいじめ、ロボパーの挿絵、年賀状、黒板消し、掃除ロッカー等のソースとなっている。

小山田圭吾炎上以前はこの誌面、一般的とは言い難い、狭い範囲でしか読まれていなかったと思われる。 知る人ぞ知る的な扱いだったのではないだろうか。

読後感に関しては、胸糞が悪い、この一言に尽きる。 なぜ胸糞が悪いと感じるのか、それを突き詰めると「いじめ」が残る。

今回私達は、「いじめの商業利用」に不快感を覚えている所があるのではないか。 これが一般に許されるケースというのは非常に限られている。 「いじめ被害を無くすため」という立場をせめて建前だけでも取る必要があるはずだ。

逆に許されないケースはどうだろうか。 いじめを助長するような記事は確実に許されない。 いじめても良い、いじめは悪くない、いじめはかっこいい、いじめられる側に問題がある、友達だった、論外である。

いじめ紀行の序盤において、新聞やテレビがいじめを問題視している描写がある。 この両誌面、当時の基準で見ても恐らく、一線を超えている。

しかもおよそ三十年にわたりほぼ放置してしまった。 三十年の放置がその信憑性を高め、三十年の放置が極悪人を生み出してしまった。

ちなみに小山田圭吾は両方でウンコの話を必ずしている。 ウンコ、好きなんだねぇ。

さて、いじめという側面から両誌面を見てみよう。

ロッキン

小山田圭吾は当時、ミュージシャンとしてのイメージを更新するために「いじめ」を利用した。 ロッキンオンジャパンはそれに手を貸し「いじめ」を商業誌で扱った。 それが「小山田圭吾2万字インタビュー」であり、ウンコバックドロップ(デマです)である。 この記事には「いじめ被害を無くす」という建前すら用意されていなかった。 「悪い俺かっこいい」「いじめかっこいい」とすら読める。

盛ったか編集に問題があったか、それは当事者間の話である。 いじめを極めて粗雑に商業的に利用し約三十年そのままだった事に一定の責任がある。 ロッキンに関してはもう、誰がどういう立場からみても、まずいという事に異論はないと思われる。

サブカルの悲願?が約三十年の時を経て最悪の文脈で不意に成就してしまった不幸についてだけは同情を禁じ得ない。 ご愁傷さまです。

問題は、QJ(いじめ紀行)なのだ。

いじめ紀行

7月後半、9月中頃、11月現在これを書くにあたり、北尾文書に添付されていた(北尾修一によるイラつく注釈付きの)誌面を私は、それぞれ数回読んでいる。 その度に、ひたすら暗い内容だな、と感じた。

ちなみに私は当初、北尾文書を読み飛ばしている。 いま思えば北尾修一ファンとして有るまじき蛮行、失礼致しました。 つまり私は、(北尾修一によるイラつくマーカー付きの)誌面を読んでから北尾文書を読んでいる。 そこが分かれ目だったのだろうか。

私はどう読んだか、少しお付き合いいただこう。

「僕」

「月刊ブラシ」でのインタビューにおいて「マンガみたいな現実」を聞くとメチャクチャシビレると語り、新聞やテレビが「頑張ってください」「死ぬのだけはやめろ」と嘘臭い無責任な言葉を垂れ流すことに吐き気すら覚えた「僕」こと村上清の自己紹介から始まる「いじめ紀行」

この記事は恐らく、いじめられた側に向けて書かれている。 自己紹介で「僕」が吐き気を覚えたのは、いじめられた側へ向けられた言葉に対してだ。 傍観者でいじめられっ子でもあったと自称する「僕」なら何を伝えるだろうか、おぼろげながらその意図が見えてくる。

ディティール賞

マンガみたいな現実にメチャクチャシビレる「僕」こと村上清はいじめ紀行の序盤、ある告白をする。

“いじめってエンターテイメント?!” とか思ってドキドキする。

マンガみたいな現実、という事なのだろうか。 これだけを見れば単なるクズの戯言である。

しかし続く一文で印象は変わる。

いじめスプラッター(アメリカ映画)には、イージーなヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティヴさを感じる。 小学校の時にコンパスの尖った方で背中を刺されたのも、今となってはいいエンターテイメントだ。「ディティール賞」って感じだ。どうせいじめはなくならないんだし。

「僕」自身が経験したことだ、間違いなく究極のディティールだろう。 ディティール賞、まるで映画の賞だ。 イージーなヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティヴさで、いじめられた経験を、マンガみたいな現実のエンターテイメントにするしかない、どうせいじめはなくならないんだし。 ということだろうか。 そう笑い飛ばせ的な明るさがある。 同時に、泣きながら笑うような寂しさを感じる。

いじめた側の人がその後どんな大人になったか、いじめられた側の人がその後どうやっていじめを切り抜けて生き残ったのか、これもほとんど報道されていない。

でも、「いじめられたけどなんとかやってます」なんてやって、いじめっ子が反省するだろうか。 いや、良かったねえとなって、いじめっ子が救われるだけだ。 だからこそ、いじめっ子がどんな大人になっているのか、「僕」はそれを知りたい。

どうせいじめはなくならないんだし。

どうせいじめられた過去はなくならないんだし。 マンガみたいに笑い流して生きろっていうんだろうか。 「僕」たちが生きているのはそんなマンガみたいな現実ではない。 一生それを背負い、黙り、傍観者の一員として生きるのか。

小山田さんは、「今考えるとほんとヒドかった。この場を借りて謝ります(笑)」とも言っている。 だったら、ホントに再会したらどうなるだろう。 いじめっ子は本当に謝るのか? いじめられっ子はやっぱり呪いの言葉を投げつけるのか? ドキドキしてきた。

マンガみたいな再会になれば、マンガみたいな現実になれば、エンターテイメントとして笑い飛ばせるかも知れない。 「僕」はそう願っていたのだろうか。

北尾修一による(イラつく)蛍光ペンマーキングを無視し、村上清の真意を探る。

小山田圭吾

ロッキンでのいじめインタビューに目をつけた村上清が取材を申し込むという形で記事は進む。 「学年を超えて有名だったいじめ被害者」を取り違え、勘違いしたまま自宅まで取材へ赴くなどなんとも冴えないエピソードが差し込まれる。

小山田圭吾は記事のなかで、「いじめっ子」として描かれる。 いじめを「悪びれずに」語り、ウンコの話もする典型的ないじめっ子。

しかし繰り返しになるが何十年前の話である。 小山田圭吾にとって良い意味でも悪い意味でも、あらゆる証明が出来ないのである。

これ以降、小山田圭吾によるちょっといい話が続くが割愛。

いじめ紀行の終点

十数ページを経て「僕」こと村上清の旅は終わりを迎える。

最後に、小山田さんが対談するなら一番会いたいと言っていた、沢田さんのことを伝えた。沢田さんは、学校当時よりさらに人としゃべらなくなっている。
「重いわ。ショック」
―――だから、小山田さんと対談してもらって、当時の会話がもし戻ったら、すっごい美しい対談っていうか……。
「いや~(笑)。でも、俺ちょっと怖いな、そういうの聞くと。でも…そんなんなっちゃったんだ……」
(中略)
―――沢田さんが「仲良かった」って言ってたのが、すごい救いっていう……
「ウン、よかったねえ」
―――よかったですよね。
「うれしいよ。沢田はだからね、キャラ的(キャラクター)にも、そういう人の中でも僕好みのキャラなんですよね。なんか、母ちゃんにチクったり、クラスの女の子に逃げたりしないしね。」

「沢田さん」が当時を取り戻すような、マンガみたいな再会、マンガみたいな現実は無かった。

「ウン、よかったねえ」
―――よかったですよね。

何が「よかった」のか確かめたかったのだろう。 そう思ったのは「僕」だろうか「村上清」だろうか。

マンガみたいな現実はやっぱり無かった。

いじめ紀行の終点の終点

今回僕が見た限りでは、いじめられてた人のその後には、救いがなかった。
でも僕は、救いがないのも含めてエンターテイメントだと思っている。それが本当のポジティヴってことだと思うのだ。
小山田さんは、最初のアルバム『ファースト・クエスチョン・アワード』発売当時、何度も「八〇年代的な脱力感をそんな簡単に捨てていいのかな」という趣の発言をしていた。これを僕は、“ネガティブなことも連れていかないと、真のポジティヴな世界には到達できない”ということだと解釈している。
でも、いや、だからこそ、最後は小山田さんのこの話でしめくくりたい。

どうせいじめはなくならないんだし。 どうせいじめ(られた現実)はなくならないんだし。 ならエンターテイメントとしてマンガみたいに笑い飛ばすしか無い。

でも、マンガみたいにはいかない、ショボい現実。 いや、そんなショボい現実でも、連れていかないと。 だからこそ、最後は小山田圭吾のこのショボい話でしめくくりたい。 そうすることでしか、真のポジティブにはきっと行けないから。

「僕」はそう思ったのだろうか。 最後は小山田圭吾の、陰惨で黒々とギラついたマンガみたいなウンコの話やいじめの話とは違い、なんともショボくて、なんとも救いの無い話で結ばれる。

「卒業式の日に、一応沢田にはサヨナラの挨拶はしたんですけどね、個人的に(笑)。そんな別に沢田にサヨナラの挨拶をする奴なんていないんだけどさ。僕は一応付き合いが長かったから、『おまえ、どうすんの?』とか言ったらなんか『ボランティアをやりたい』とか言ってて(笑)。『おまえ、ボランティアされる側だろ』とか言って。でも『なりたい』とか言って。『へー』とかって言ってたんだけど。高校生の時に、いい話なんですけど。
でもやってないんですねえ」

…いい話っすねぇ。

地雷とはつまり

読み方は自由である。 そもそも「いじめ紀行」は多方面に読める。 むしろそこにこそ価値がある。 村上清が狙った物か、それとも偶然による物か。 例えば一年後、また読み直して見て同じ印象を持つだろうか。 それとも、まったく違う印象を持つのだろうか。 少なくとも私は、暗いという印象は変わらないが、11月現在、少し違う見方をしている。 それについては次回以降、乞うご期待!

では何が問題なのだろうか。 私はこの「いじめ紀行」を、「いじめについての記事」として読んだ。 いじめの描写をするからには、「いじめ被害を無くすため」という建前がせめて必要だからだ。

では北尾文書を伴って読まれた場合はどうか。 「いじめについての記事」として読まれるだろうか。 北尾文書の目的とは、デマをすり替える事、小山田圭吾の友情を語る事、ではなかったか。 「いじめについての記事」ではなく、「小山田圭吾についての記事」と読まれているのではないか。

「小山田圭吾についての記事」として読んで何が悪いのか。 当然、読み方は自由である。 …が、恣意的な言い方をさせてもらおう。 ロッキンは「いじめかっこいい」と読まれる可能性がある。 いじめ紀行は「いじめても友情があったと言えば良いんだ」と読まれる可能性がある。 両者共に、もともと、いじめを助長する可能性があるのだ。 それでも意図が「いじめ被害を無くすため」ならば、まあ責められはしないだろう。

しかしそれが「小山田圭吾のため」となれば、話は全く違ってくる。

北尾文書は、「小山田圭吾のため」、「小山田圭吾といじめ被害者の間には友情があった」と喧伝しながら、「小山田圭吾についての記事」として「いじめ紀行」を、読ませているのだ。 言い方を変えよう。 「小山田圭吾のため」に、いじめを助長する危険を冒しながら、「いじめ紀行」をただの友情物語として「いじめ紀行」自体の価値を毀損し、「いじめ紀行」の中で語られた「いじめ」と「いじめ被害者」の存在を有耶無耶にしたのだ。

この地雷、おわかりいただけただろうか。

ところで7月16日の小山田圭吾声明から引用してみよう。

私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳なく、本来は楽しい思い出を作るはずである学校生活において、良い友人にならず、それどころか傷付ける立場になってしまったことに、深い後悔と責任を感じております。

良い友人ではなかった、なかなかの表現だ。 小山田圭吾は恐らくこの地雷を的確に把握していた。 「友情があったと言い、いじめを無かった事にしている」と思われる事の危険性を。

さて今回、炎上当時、北尾文書が真上から踏み抜いたある地雷について解説させてもらった。 北尾文書のやり方は問題が多く、この地雷はあくまでその中のひとつに過ぎない。

TOKYO 2021。
これからの時代は偽善ですよ。

偽善と言いながら微塵の躊躇もなく平然と真上から地雷を踏み抜く北尾修一の姿にメチャクチャシビレる。

…僕が思わずファンになってしまったのも納得ですねぇ。


  1. 小山田圭吾
  2. 狡知
  3. いじめ紀行
  4. 外山恒一
  5. ロッキンオンジャパン
  6. 村上清

Loading Comments...

Profile picture

ヤマタカシ
小山田圭吾問題に関心があります
Twitter, yymtks.com

小山田圭吾(30)北尾修一(4)外山恒一(2)いじめ問題(1)上級国民(1)愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件(1)

狡知(23)東京2020(4)DOMMUNE(1)キャンセルカルチャー(1)中原一歩(1)時計じかけのオレンジ(1)

いじめ紀行(15)ロッキンオンジャパン(2)GENAU(1)デマ(1)山崎洋一郎(1)村上清(1)

Copyright 2021 Yamatakashi