前回、北尾修一が小山田圭吾辞任直後に連載を始めた「いじめ紀行を再読して考えたこと」(以下、北尾文書、現在有料)が踏み抜いたある地雷について「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を私は当時どう読んだかという点を交えて解説した。 同時に、小山田圭吾が的確に配慮した部分という話もした。
2021年7月16日、小山田圭吾は炎上を受けて公式サイト・Twitterにて「東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして」と題された声明を出す。 私が小山田圭吾問題を知ったのは彼が辞任した後である。 全文掲載等の報道で流し読みした後、本腰を入れてこの声明を読んだのは、北尾文書(2)を受けてだったように思う。
今回、当時の私はこの声明をどう読んだか、思い出してみたい。
声明
小山田圭吾の声明、炎上の渦中において出された物だ。 続投というスケベ心も多少はあっただろう。 これは何度でも繰り返そう。 私含め、多くの国民にとって小山田圭吾とは残念ながら「誰だっけ」という存在でしかない。 なんだかよくわからんヤツが勝手に炎上している、という程度の認識だ。 それを踏まえると解任、あるいは辞任以外の選択肢は無かったと私は今でも思う。 その覚悟は既に決まっていたような文面という印象は強い。
当時、小山田圭吾が世論に問われていたのは余罪である。 これも何度でも繰り返そう。 既に何十年かが経過した問題である。 良くも悪くも、あらゆる意味で証明が出来ない。 そして市民はバカでもアホでもない。 それくらいは誰でも心得ている。 また大半の市民は人の事をとやかく言えないようなクズでもない。 その上で「けしからん!」と怒ると同時に「どうせ他にも色々やってんだろ」「本当は記事よりひどいことをやってたんじゃないのか」と疑っているのだ。
「小山田圭吾を信用していいのか」
小山田圭吾は、世論による抽象的なこの問いに答えなければならなかった。 何しろこれは五輪の問題であり、上級国民問題(過去記事参照)でもある。 相当に厳しい疑いの目であることは言うまでもない。
あの極限状態で小山田圭吾は何を思ったのか。
ウンコバックドロップ(デマです)に単身闘いを挑む人間小山田圭吾の覚悟。
それを見てゆこう。
全文
東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして
この度は、東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への私の参加につきまして、多くの方々を大変不快なお気持ちにさせることとなり、誠に申し訳ございません。 心よりお詫び申し上げます。
ご指摘頂いております通り、過去の雑誌インタビューにおきまして、学生時代のクラスメイトおよび近隣学校の障がいを持つ方々に対する心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは事実であり、非難されることは当然であると真摯に受け止めております。
私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳なく、本来は楽しい思い出を作るはずである学校生活において、良い友人にならず、それどころか傷付ける立場になってしまったことに、深い後悔と責任を感じております。
学生時代、そしてインタビュー当時の私は、被害者である方々の気持ちを想像することができない、 非常に未熟な人間であったと思います。
記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。
また、そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います。
それにより、当時のクラスメイトだけでなく、学生時代に辛い体験をされた方々やそのご家族、応援してくださるファンの方々に対しても、不誠実な態度を取り続けることになってしまいました。 本当に申し訳ありません。
学生当時、私が傷付けてしまったご本人に対しましては、大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたいと思っております。
今回、私が東京2020オリンピック・パラリンピック大会に携わることにつきまして、否定的なご意見を頂くのは尤もであると思います。 また、このコロナ禍において、国民の皆様が不安を抱えるなかでの大会開催に関与することへの疑問のご意見も頂戴しております。
本来であれば、様々な理由から、私の参加にご不快になられる方がいらっしゃることを考慮し、依頼を辞退すべきだったのかもしれません。 しかし、課題も多く困難な状況のなか、開会式を少しでも良いものにしようと奮闘されていらっしゃるクリエイターの方々の覚悟と不安の両方をお伺いし、熟考した結果、自分の音楽が何か少しでもお力になれるのであればという思いから、ご依頼を受けるに至りました。
そのうえで、今回の音楽制作にあたりましては、自分なりに精一杯取り組んで参りました。 それは、私だけではなく、他のクリエイターの方々も同様であると思います。 故に、私の関与により、開会式へ不快な印象を与えてしまうことを心から申し訳なく思います。
この度、様々なご指摘を頂いたことで、あらためて、自分自身の在り方について振り返り、反省と再考をさせて頂く機会を得ました。 それにつきましては、ご意見をくださった皆様に、感謝すべきことだと感じております。
私が傷付けてしまったクラスメイトご本人へはもちろんのこと、長年の私の不誠実な態度により、不信感や不快感を与えてきてしまったファンの皆様や友人たち、関係者の皆様に、心からお詫び申し上げます。
一人の人間として、また、音楽家としてどう在るべきか、自分は世の中や周囲の人々に対して、どういったかたちで貢献していくことができるのか、常に自問自答し、より最善の判断をしていけるよう、一層の努力をして参りたいと思います。
小山田圭吾 2021年7月16日
不快という表現
全文掲載して尺を稼いだ後は細部を見ていく。
この度は、東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への私の参加につきまして、多くの方々を大変不快なお気持ちにさせることとなり、誠に申し訳ございません。
心よりお詫び申し上げます。
「大変不快なお気持ち」という表現がまず目に入る。
「不快」、である。
小山田圭吾問題を語る場合、様々な不快感と向き合わなければならない。
ウンコだのオナニーだのといった分かりやすい不快感もあれば、当然、そうでは無いものもある。
例えばこんな不快感もある。
五輪というのは一種の公共事業と見ることもできる。 血税が使われているのだ。 それをウンコバックドロップ(デマです)一撃でクソまみれにして破壊し尽くす残虐、とても心温まる話ではないか。 誰だってクソまみれになるのは嫌だしクソなんてわざわざ見たくもない。 不快になるのは当たり前だクソ野郎とクソを垂れる前に良く考えて欲しい。
五輪の貴賓席には誰が座ったか。
市民が持った不快感というのは相当大きいはずだ。 かく言う私も実は、かなり怒っている。 あの醜聞を背負った小山田圭吾を起用してはいけなかった。 組織委員会、猪瀬直樹(過去記事参照)、関係者諸々に責任がある。 同時に、小山田圭吾自身が言うように、引き受けた小山田圭吾にも責任が、ある。
いくつもの不快感がそれぞれにあるだろう。
市民に対し謝罪したいが「国民の皆様へご迷惑云々」と粗雑な事をやって響くわけがない。 なぜ謝るのか、せめてそれをはっきりさせる必要がある。 「不快」、悪く言えば曖昧、良く言えば普遍的な言葉である。 出来るだけ広範囲への意味ある謝罪とするために「不快」という表現を用いたのだろう。 またこれを冒頭に置くことで途中で読むのをやめる読者にも届く謝罪となる。
なるほどよく考えられている。
心無い発言や行為
ご指摘頂いております通り、過去の雑誌インタビューにおきまして、学生時代のクラスメイトおよび近隣学校の障がいを持つ方々に対する心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは事実であり、非難されることは当然であると真摯に受け止めております。
「指摘の通り、雑誌で、障がい者へのいじめを、語った、非難は当然だ」
要約するとこうなる。
雑誌インタビューとは言うまでもなく、「小山田圭吾2万字インタビュー」(ロッキング・オン・ジャパン94年1月号)と「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」(Quick Japan 第3号)だろう。
小山田圭吾はこの声明の中で、ブログやTweetに関し直接言及していない。
それらはもちろん、大手新聞社による報道ですら、実は枝葉に過ぎない。
根であるいじめ、幹である誌面を解決しない限り、枝葉は必ずまた生える。
そんな馬鹿なと思うだろうか。
では純朴なる読者である君が今まさに見ているこのページ、これが枝葉でなくしてなんなのか。
モグラ叩きの如くキャンセルを繰り返しても何ら意味はない。
小山田圭吾は恐らくそれを的確に把握していた。
炎上の渦中とは思えないほど冷静な判断だ。
小山田圭吾はここで、「語っていたこと」を問題視している。 「ウンコバックドロップ(デマです)」と総称して語られていた一連の問題から「いじめを語った事」を明確に切り分けた。 「いじめを語った事」への謝罪も本来、加害者と被害者、当事者間で行われるべきではある。 しかし「(いじめを助長しかねない形で商業的に)いじめを語った」「差別的発言をした」という自らの過ちについては小山田圭吾単独で世論に対し謝罪できる。 世論への謝罪というのは不特定多数に対するものだ。 当事者間で行われるべき謝罪をそれと同列に扱うべきではない。 好意的に解釈すれば、被害者への配慮だろう。
興味深い話の進め方である。
「良い友人」
私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳なく、本来は楽しい思い出を作るはずである学校生活において、良い友人にならず、それどころか傷付ける立場になってしまったことに、深い後悔と責任を感じております。
学生時代、そしてインタビュー当時の私は、被害者である方々の気持ちを想像することができない、非常に未熟な人間であったと思います。
いじめというものは、いじめられている当人の家族もまた辛いものだろう。
自分の家族がいじめられていたとしたら、想像していただきたい。
誌面で語られたいじめの向こう側には人がいる。
家族やそれに類する人たちもいる。
悔しいのは当たり前だろう、無力感、絶望、後悔だろうか、あるいは憎しみか。
小山田圭吾は、いじめ被害者家族への配慮を見せた。
そして「良い友人ではなかった」という表現。 友情があったと思いたい、言いたい、が、結果的には傷付けている。 これを友情と言って良いのだろうか。 そんな小山田圭吾の葛藤を垣間見る事が出来る。
さらに「深い後悔と責任を感じている」と続く。
「責任」、この文脈では珍しい表現だ。
いじめが、いじめ被害者の将来に与えた影響に対する責任という事だろうか。
沢田(仮)は「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」(067p)において「卒業してからひどくなった」と語られている。
その責任の一端は、いじめにあるのではという小山田圭吾の自責の念に思えてならない。
なかなかに読ませる表現だ。
この短い文から私達は、様々な事を読み取ることが出来る。
まるで「友情があったと思い込んでみてもこんなに悩むぞ」と諭されているようだ。
「こんなに悩むならいじめはやめておこう」と思ういじめっ子が現れるかもしれない。
贖罪のひとつとして機能しているではないか。
ウンコバックドロップ(デマです)越しにおぼろげながら社会的意義の片鱗とでもいうべき(まだウンコ色の)輝きが見える。
名指しされたデマ
記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。
ロッキング・オン・ジャパンは発売前の原稿確認をさせない事で有名だったようだ。
「当時の『ロッキング・オン・ジャパン』がミュージシャンに原稿チェックさせなかったのは有名な話です」
--- いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか
我らが北尾修一もこう言っている。
(ということはQJも原稿チェックさせなかったのだろうか? )
ここで小山田圭吾は、記事の内容には事実と異なる内容が多く記載されており誇張もあると明言している。
つまりロッキン(ロッキング・オン・ジャパン94年1月号)はデマだと小山田圭吾が実質名指ししているのだ。
「間違いなく」「自覚」「自己責任」、これらの強い言葉を用いて自らの罪を認めた上で、ロッキンをデマと糾弾している点に注目するべきだ。
仮に罪を認めずただロッキンを糾弾していたらどうなっていただろうか。 何度でも繰り返す。 何十年の話なのだ。 良い意味でも悪い意味でも、あらゆる証明が出来ない。 ロッキンはデマだ、ならばロッキンから派生した物もデマだ、疑わしきは罰せず、いじめなど無かった。 と、こうなるわけだ。
市民はバカではない。
疑わしきは罰せずと割り切れないのだ。
なぜ割り切れないのか不思議に思うだろうか。
「いじめを証言した誌面には不正確な部分がある」
「ならば誌面は証拠たり得ない」
「その誌面から派生したあらゆる物も証拠たり得ない」
「全て証拠たり得ないならば、いじめは無かったと有利に解釈しよう」
さて、ここにいじめ被害者はいるのだろうか。
いてもいなくても関係ない話しの進め方だ。
「誌面に疑いがある」事が過大に評価され、「いじめ」「いじめ被害者」の存在にまで疑義が及びかねない。
小山田圭吾という大義である、いじめ被害者は黙っていろ、とすら聞こえる乱暴な論法だ。
繰り返そう。
市民はバカではない。
被害者が声を上げる事の難しさに気づいているからこそ、疑わしきは罰せずと割り切れないのだ。
告発や証言にはただでさえ勇気がいる。
特に今回は五輪に絡んだ話である。
被害者に限らずあらゆる証言者がそれを意識するはずだ。
そう、声を上げづらいのだ。
市民はその程度、理解している。
その上で、疑わしきは罰せずと割り切っていいのかと悩んでいるのだ。
現実として小山田圭吾は罪を認めた上でロッキンをデマと糾弾した。
この糾弾は、小山田圭吾が自認する罪が(市民から見て)妥当である限りにおいては、耳を傾けられるだろう。
また、そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います。
小山田圭吾自身による、愚かな自己保身という痛烈な自己批判は出版側に選択を迫った。 ロッキンは7月18日付け、太田出版は7月19日付けで声明を出す。 それは小山田圭吾と同じく、過去と向き合う覚悟を示した声明だった。
謝罪
それにより、当時のクラスメイトだけでなく、学生時代に辛い体験をされた方々やそのご家族、応援してくださるファンの方々に対しても、不誠実な態度を取り続けることになってしまいました。
本当に申し訳ありません。
「学生時代に辛い体験をされた方々やそのご家族」、二次被害の事だろう。
誌面での露悪的な語りは、いじめを極めて軽率に扱ったと言わざるを得ない。
そして二十年以上の間それらをほぼ放置した。
いじめられた経験を持つ当事者、あるいはその家族に読まれた事もあるはずだ。
二次被害とは、いじめられた当時を思い出す事だけではない。
いじめられた事に意味を見出したいと願ういじめ被害者の思いを踏みにじることもまた、二次被害ではないだろうか。
例えば、いじめ被害を語り継ぐ事で、いじめが少しでも無くなればという思い。
あるいは、いじめっ子がいじめの経験を反省して良い方向へ進んでほしいという思い。
見なければいいという単純な問題では到底無い。
ファンについてはまあどうでもいい。
学生当時、私が傷付けてしまったご本人に対しましては、大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたいと思っております。
一方的な謝罪は脅迫に似ている。
謝ったから、充分な懲罰を受けたから、もう許してやれよという空気を醸成しかねない。
「受け入れてもらえるのであれば」と緩衝材を置き、そこを牽制したのだろう。
五輪に絡んだ話であり、小山田圭吾は当然、強い立場からの謝罪となる。
疑いの目で見られる事を自覚していたはずだ。
さて思い出していただきたい。
市民にとって小山田圭吾とは、どういう存在であったか。
「誰?」という程度なのである。
その正体不明の上級国民といじめ被害者、市民はどちらに同情するだろうか。
小山田圭吾にとって被害者の尊重というのは絶対条件である。
経緯
今回、私が東京2020オリンピック・パラリンピック大会に携わることにつきまして、否定的なご意見を頂くのは尤もであると思います。
また、このコロナ禍において、国民の皆様が不安を抱えるなかでの大会開催に関与することへの疑問のご意見も頂戴しております。
コロナ禍における開催という特殊性、そして恐らく五輪反対の道具として利用されている事に気づいている。
的確な現状判断ではないか。
本来であれば、様々な理由から、私の参加にご不快になられる方がいらっしゃることを考慮し、依頼を辞退すべきだったのかもしれません。
様々な理由。
ウンコバックドロップ(デマです)、調布の超万引場所カーステ窃盗証拠隠滅失敗便所(多分デマです)、いじめアイディア提供ドキドキ大軍師(デマです?)、様々としか言いようがない。
ギターがどうとか文集がどうとかもあった気がする。
…なるほど様々である。
「自分が参加すると様々な理由で不快になる人が出る」
なかなか言えるものではない。
小山田圭吾は今回の問題が多方面に渡り横断的に「まずい」ということを理解している。 いじめ問題、障がい者問題、性的虐待、差別問題… まさに「様々な理由」である。
しかし、課題も多く困難な状況のなか、開会式を少しでも良いものにしようと奮闘されていらっしゃるクリエイターの方々の覚悟と不安の両方をお伺いし、熟考した結果、自分の音楽が何か少しでもお力になれるのであればという思いから、ご依頼を受けるに至りました。
そのうえで、今回の音楽制作にあたりましては、自分なりに精一杯取り組んで参りました。
それは、私だけではなく、他のクリエイターの方々も同様であると思います。
故に、私の関与により、開会式へ不快な印象を与えてしまうことを心から申し訳なく思います。
実質、他のクリエイターへの間接的な謝罪だろう。 この声明の中で最も本音を吐露した部分ではないだろうか。 五輪の楽曲参加を引き受けた事を打算的に見る向きもあるが、どこのバカがウンコバックドロップ(デマです)を背負ったまま意気揚々と、バレれば炎上確定、国益の問題にすらなるような場に参加するというのか。 それこそヤケクソである。ウンコだけに。
これから
この度、様々なご指摘を頂いたことで、あらためて、自分自身の在り方について振り返り、反省と再考をさせて頂く機会を得ました。
それにつきましては、ご意見をくださった皆様に、感謝すべきことだと感じております。
私が傷付けてしまったクラスメイトご本人へはもちろんのこと、長年の私の不誠実な態度により、不信感や不快感を与えてきてしまったファンの皆様や友人たち、関係者の皆様に、心からお詫び申し上げます。
一人の人間として、また、音楽家としてどう在るべきか、自分は世の中や周囲の人々に対して、どういったかたちで貢献していくことができるのか、常に自問自答し、より最善の判断をしていけるよう、一層の努力をして参りたいと思います。
今回の炎上を糧に、反省と再考という学びを持って贖罪のひとつとするとの表明だろう。 「一人の人間として」、小山田圭吾は贖罪の方向をそう見定めているのかもしれない。 小山田圭吾は以前から葛藤や罪悪感というものを抱えていたようだ。 贖罪を考えなかったわけがない。 が、音楽家としてのそれでは贖罪たり得ず、過去と向き合う事は叶わなかった、という事だろうか。
総評
小山田圭吾は7月16日の声明において様々な方向への配慮を見せた。 その配慮も妥当性を感じるもので、それが転じて、声明から受ける真摯さとなった。 また、何が問題で、誰に謝罪するかが明確であった点もそれを補強した。 当時の時系列的には、7月15日に発端とされるTweetがあり、同日中には報道が始まり、同16日声明発表となる。 玄人はだしの早業である。 あるいは予め用意していたか。 まあそれはいい。
重要な点は、今回の問題に真正面から向かい合う覚悟を小山田圭吾が見せた事だ。 あえて言い訳らしい所を上げれば、参加を辞退しなかった理由くらいだろう。 誌面に関しては自らの罪を全面的に認めた上での指摘である。 これを言い訳というのは酷である。
この声明により世論は、小山田圭吾の言葉に耳を傾ける用意が出来ていた。 適切に時間をかけ、この声明と同じく真摯に問題と向き合い続ければ、許されるはずだ。 誌面が作られた当時の事情も、その過程で明らかになるだろう。 続く贖罪の道は長く遠い物になるのは間違いない。 特に、差別的な発言が許される日は来ないかも知れない。 それでも、懲罰的に燃やすだけ燃やして同情を買い、感謝といいながら復帰するという古式ゆかしい茶番劇よりかは遥かにマシだろう。
あくまでこの声明の初志が貫徹されれば、ではあるが。