敬称略雑記けいしょうりゃくざっき

狡知 15 「深層 後編 後編」

前回、「黒板消しをパタパタした」として語られるいじめが「ある読み方」のもと「異質ないじめ」になることを示した。そして誰が友情と言い出したのかという疑問を今回に残しつつ当時の印象を語った。まあ言うまでも無く北尾修一による7月20日連載開始の記事「いじめ紀行を再読して考えたこと」(以下、北尾文書)である。 今回、その北尾文書が、そして外山恒一による「小山田圭吾問題の最終的解決」(以下、外山文書)が結果としてどういう意味を持ったか、小山田圭吾による7月16日付けの声明(以下、7月声明)と9月17日付けの声明(以下、9月声明)をこねくり回しながら、9月後半の感覚で語る。
ところでこの大変真面目な書き出しに私の正気を疑ったクズどもはまず自分の正気を疑うべきだろうと指摘しておく。

何回でも繰り返すがこれは単に小山田圭吾問題が私からはどう見えているかの話である。 あらゆる断言はしかね、あらゆる証拠なぞそもそもない。あったらこんな話になってない。 デマとか陰謀論に鼻先まで浸かったヨタ記事の類であることをくれぐれも忘れずに読んでいただきたい。

今回語る一連の流れの中でクイックジャパン側の(当時の)当事者達が何を目指して動いたように私には見えたか、まずはそれを共有しておくべきだろう。
「我々を見捨てるなら我々にも考えがある」
私には、そういう強いメッセージ性を持った動きだったように思えた。

そしてこれは何度でも繰り返そう。 小山田圭吾問題は数十年前の話であり、あらゆる証明が難しい。
同時に、小山田圭吾問題は本質的に、言及すら難しい。
本来であれば「然るべき体制」を持って事に当たるべき話だ。

本来、出版側が行うべきは、小山田圭吾のみを矢面に立たせる事ではなく、共に矢面に立つ事だったのではないだろうか。

当時の謝罪を改めて読む

これも何度でも繰り返そう。

ご指摘頂いております通り、過去の雑誌インタビューにおきまして、学生時代のクラスメイトおよび近隣学校の障がいを持つ方々に対する心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは事実であり、非難されることは当然であると真摯に受け止めております。
私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトその親御さんには心から申し訳なく、本来は楽しい思い出を作るはずである学校生活において、良い友人にならず、それどころか傷付ける立場になってしまったことに、深い後悔責任を感じております。
また、そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います。
--- 7月16日、小山田圭吾声明

その時のインタビュアーは私であり編集長も担当しておりました。そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います。
27年前の記事ですが、それはいつまでも読まれ続けるものであり、掲載責任者としての責任は、これからも問われ続け、それを引き受け続けなければならないものと考えています。
--- 7月18日、ロッキング・オン・ジャパン94年1月号小山田圭吾インタビュー記事に関して

現在、この小山田圭吾氏の一連のいじめ体験についての告白が大きな批判を受けています。当時のスタッフに事実・経緯確認を行い、記事を再検討した結果、この記事が被害者の方を傷つけるだけでなく差別を助長する不適切なものであることは間違いないと判断しました。この検討は出版後26年を経てのものであり、この間、2012年にはいくつかの号が復刊される機会があり、この第3号も100部の復刊を行っています。最初の出版段階での判断のみならず、その後再検討のないまま時が過ぎたことも、出版社としてその姿勢が問われるものであると考えます。
--- 7月19日、『Quick Japan 第3号』掲載の小山田圭吾氏記事についてのお詫び

さて小山田圭吾と沢田(仮)の友情を説明し「ウンコバックドロップ(デマです)の男」という炎上当時の人物像に一石を投じたものは何だったか。
そして、この小山田圭吾と出版二社による総括の流れに一石を投じたものは何だったか。

それに踊らされたお人好しのクズどもが、と、あえて言っておこう。

北尾文書

そう、北尾修一による北尾文書、だ。

北尾文書が何なのか、クズだのカスだのとつぶやきながらも私のサイトの更新を心待ちにしているクズどもに北尾修一非公式ファンサイトの烙印を押されながらも私はこれまで心を砕きながらそれを説明してきた。新参のクズどもは過去記事を適当に読んで欲しい。 簡単にまとめると北尾文書は、小山田圭吾7月声明にある誌面へのデマ指摘を上書きし、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」における小山田圭吾と沢田(仮)の友情を説明し、個人のブログをデマと糾弾し、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の誌面を公開した。

さてそろそろこういう表現をしても、ピンとくるものがあるだろうか。
ウンコがどうとかそういう表現ではない。

個人のブログが、悪を、悪と描いていては困る。
個人のブログが、善を、悪と描いていないと困る。

悪を悪と書いても、まあやっぱり悪は悪だ。どうしようもない。

今回の炎上における小山田圭吾の善性、「障がい者と対等な目線で付き合う」、「障がい者に偏見が無い」、そんなところだろう。 当時の小山田圭吾の善悪は数十年前の話であり、あらゆる証明が最早出来ない。 しかしどうやら問題のある発言が載った誌面は、確かに有るらしい。 炎上当時のそんな「曖昧な悪」を「(すくなくとも)曖昧な善」にするため、北尾修一は友情を用いた。 そう、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」において、いじめ被害者として描かれる沢田(仮)との友情、である。 本来の読み方であれば、そこで語られる友情は最終的に読者が考える曖昧なものだ。 しかしその「曖昧な友情」を強引に「友情」であったと言い切るために生じた摩擦がつまり、北尾文書に対する悪評というところだろうか。

つまりは「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の、あの内容で友情を語るのはさすがに無理だろうと言いたいだけだ。

しかし北尾文書はそれを強力に歪曲し、友情を語り、小山田圭吾に「曖昧な善」を与えた。 その上で、本来は小山田圭吾問題を検証するために読まれるべき「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を、個人のブログのデマを検証させるために読ませた。

善を悪と書き、それがデマであれば、小山田圭吾と出版側は被害者にすらなり得る。

さてこの流れで出版側の問題が語られる事はあるだろうか。

北尾修一

前提として私は、北尾文書は緊急回避策であったとの認識を持っている。
そして北尾修一の立場に一抹の同情も寄せよう。

北尾修一の真意は測りかねる、が。
彼の本質は有能な編集者であり経営者でもある。
北尾修一のファンが言うのだから間違いはない。

…まさかなぁというところを想定してちょうど良いくらいなんじゃあないんでしょうかねぇ。

 以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 064p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)

北尾修一は当事者である。

まず北尾修一は、小山田圭吾に沢田(仮)との友情の存在に疑義を唱えられては困る。 例えば「良い友人ではなかった」、下手をすれば「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」における友情があったとして許されていた部分が問題視されかねない。 小山田圭吾の7月声明とそれに続いた出版二社、その先に有るものは総括の流れではないか。 これもまた北尾修一にとってはなんとしても避けたい流れだろう。 北尾修一が代表を務める「一人出版社」株式会社百万年書房、実態は不明ではあるが、たとえそれが火の粉であったとしても難しい対応を迫られるのではないだろうか。

ところで株式会社百万年書房は外山恒一が上梓した「政治活動入門」を出版している。

外山文書

「密室ものとして。あと黒板消しはやっぱ必需品として。〝毒ガスもの〟として(笑)」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 062p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)

読者諸氏に置かれては、外山文書、外山恒一による「小山田圭吾問題の最終的解決」がなぜそのような「表題」であるかについて思う所はあるだろうか。

言うまでもなくこれは「ユダヤ人問題の最終的解決」から取った名前だろう。

ナチスは頻繁に婉曲的な言葉を使って、その犯罪の本質を覆い隠そうとしました。 ユダヤ人絶滅計画には「最終的解決」という名称が使われました。 ナチスドイツの指導者たちが「最終的解決」の実施を最終的に決定した時期は知られていません。 ユダヤ人のジェノサイド(大量殺戮)は、10年間にわたって過酷さを極めつつあった差別的処置の頂点を成すものでした。
--- 「最終的解決」: 概要 | ホロコースト百科事典

ツィクロンBは、空気に触れると致死性ガスに変わるというペレット剤でした。ツィクロンBは最も即効性のある方法であることが認められ、アウシュビッツでの大量殺戮の方法として採用されました。移送者数が最も多い時期には、アウシュビッツ収容所で毎日6千人ものユダヤ人がガス室に送られていました。
--- ガス室の使用 | ホロコースト百科事典

小山田圭吾を擁護する文脈で語られる外山文書である、が、しかし。 暗喩だろうか、それにしては剣呑なタイトルを随分ときわどい場面で使うものだ。 外山文書が公開されたのは8月頭である。

7月15日から始まった小山田圭吾炎上、ようやく火勢が落ち着いてきたかという8月頭だ。 7月23日に小林賢太郎がコント内でホロコーストに言及していたとして解任された後の8月頭である。 ホロコースト問題に関わると「読まれうる」小山田圭吾の発言が運良く見過ごされていた8月頭なのだ。

そこに「小山田圭吾問題の最終的解決」。

この点は小山田圭吾に心より同情しよう。

一体何をやっているんだ?
いやそれよりも、そもそも何のために?

外山恒一

 たしかに私がこの事件に深く興味をそそられたきっかけは、〝身内〟たる北尾氏の告発記事です。しかしそれは、〝身内〟の書いたものは目に入りやすいということ以上ではありません。仮に北尾氏ではなく、もちろん〝身内〟でも何でもない、誰か私のまったく知らない人物がこの告発記事を書いたのだとしても、何かの拍子にたまたま私の目に留まったとすれば、やはり私は今こうしているのとまったく同じように、やむにやまれぬ情熱に突き動かされ、事件解決のために奔走したことでしょう。
--- 外山恒一「小山田圭吾問題の最終的解決

ご想像いただきたい。 外山恒一が海外に向けてベラベラと小山田圭吾擁護として発信しまくる日々を。 地獄とはまさにこの事、そんな日々が到来した暁には私なぞ目に熱いものすら浮かべながらただただひたすらに忍耐を試される羽目に陥っていたことであろう。 そんな事になればもはや、どうなるかは明白である。 黒板消しでの「異質ないじめ」(狡知 14 「深層 後編 前編」 | 敬称略雑記)がファシスト外山恒一を媒介に性質を変容させながら世界に喧伝されるだけだ。 外山恒一としてはこれに言いたいことは色々あるだろうが、むしろそれを嬉々として説明しかねない。

つまりは小林賢太郎と同じ文脈で語られる訳である。

そもそもなぜ外山恒一がいきなり出張ってきたか。
意外とあの長大な文章量にヒントがあるのかもしれないが、まあそれはいい。

「我々を見捨てるなら我々にも考えがあるぞ」
要するに私からはこのような動きであると見えた。

当事者であるところの小山田圭吾がこの流れの意味に気づかない訳がない。

中原一歩

(ROJ記事に関し)また、「ウンコを喰わしたりさ」の部分は、小学校時代の思い出だ。小山田氏によると、「小学校の頃、何でも落ちているものを口にしてしまう同級生がいました。枯葉とか蟻んことか。その彼が下校している時に、道に落ちていた犬のウンコを食べて、ぺっと吐き出して、それをみんなで見て笑っていたという話をしたんです」。つまり、この話をさも自分が強要したように、「盛って」語ってしまったのだ。
--- 中原一歩 なぜ小山田圭吾はイジメ発言をしたのか? 加害性の否定と無意識のサービス精神 検証ルポ「小山田圭吾事件」#4 文春

同日、小山田圭吾ファンどもの指摘により、この表現は中原一歩自身により訂正される。

【重要】先ほど配信した記事に誤りがありました。以下の通り、訂正をさせていただきます。
誤)→「つまり、この話もさも自分が強要したように「盛って」語ってしまったのだ」
正)→このエピソードをあたかも小山田氏がやったかのように「盛って」掲載したのは、雑誌の側だというのだ。
--- 中原一歩 @ipponakahara 午後1:35 ・ 2021年12月27日

まあ、だからなんだと言う訳ではない、が。

文春記事は「小山田圭吾の禊の場」では無いかも知れないが「『ROCKIN’ON JAPAN』『QUICK JAPAN』の禊の場」ではあるという事になりかねない。
--- 「週刊文春は小山田圭吾問題の「裏」を把握しているのか

12月現在、私が持っている懸念は不幸にも現実のものとなりかけたわけだ。

中原一歩が北尾修一と繋がっているとまでは言わない。 そしておそらくは単純な勘違いだろう。 しかしこの小山田圭吾問題は、その単純な勘違いですら大きな意味を持つ、言及すら難しい問題なのだ。

話を9月後半近辺に戻し、少し興味深い時系列で事を整理しよう。

見えてくるもの

7月15日、炎上の発端となる発言
7月16日、小山田圭吾7月声明「東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして
7月19日、小山田圭吾辞任
7月20日、北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと」連載開始
7月30日、赤田祐一、スペクテイターにて声明
8月3日、外山恒一「小山田圭吾問題の最終的解決
8月6日、外山恒一「小山田圭吾の「名誉回復」運動のために
8月中旬、中原一歩、小山田圭吾と接触
9月上旬、中原一歩、小山田圭吾へインタビュー
9月15日、中原一歩小山田圭吾 懺悔告白「僕はなぜ“障がい者イジメ”を得意げに語ったのか」
9月16日、村上清「1995年執筆記事「いじめ紀行」に関しまして - 太田出版
9月17日、小山田圭吾9月声明「【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】

何かしらが見えては来ないだろうか。 この記事はそもそも、7月声明と9月声明がなんか違うぞなんだか北尾修一臭がするぞと難癖を付けた「狡知 11 「凶兆」 | 敬称略雑記」の続きだ。 そこで述べたのは、7月声明の裏方と、9月声明の裏方は違うのではないか、という点だ。 7月声明の裏方はどうも山崎洋一郎な気がするぞとそこで言及した。北尾修一のファンである私が適当に言ってるだけなので当てにしないように。

では9月裏方は誰なのか。

外山恒一だったら大笑いだが、私は中原一歩ではないかと睨んでいる。 北尾修一ではないのか、当然そう思うだろう。 ここはあえて勘で言わせてもらおう。 なんか違う。

つまるところ

弁護士だろ、いや、弁護士だけに任すだろうか。 小山田圭吾と共に9月声明を書いた裏方は誰か、まあそれは置いておこう。

記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。
--- 7月16日 小山田圭吾 「東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして」

おそらく『ロッキング・オン・ジャパン』1994年1月号の記事は、もっとずっとシンプルな話なんです。これは推測ですが、インタビュアーへのリップサービスで、小山田さんが学生時代の出来事を大げさに話したのではないでしょうか。そしたら、それを誌面にそのまま載せられてしまったと。現在は知りませんが、当時の『ロッキング・オン・ジャパン』がミュージシャンに原稿チェックさせなかったのは有名な話です。
--- 7月23日、北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」

インタビューの流れ、やりとりの調子にもとくに不自然なところはなく、もちろん実際の話し言葉なんてものは文法的にムチャクチャですから、そういうのを直すとか、いろいろ脱線した部分を削除するとか、実際はこの部分にはちょっと長めの間なり沈黙なりが存在したとかいうことはあるでしょうが、内容面に関しては実際おおよそこのようなやりとりがあったのだろうと受け止め、それを前提に私は解釈を進めているわけです。
--- 8月3日、外山恒一「小山田圭吾問題の最終的解決」

『ROCKIN’ON JAPAN』については、発売前の原稿確認ができなかったため、自分が語った内容がどのようにピックアップされて誌面になっているかを知ったのは、発売された後でした。それを目にしたときに、事実と異なる見出しや、一連の行為を全て私が行ったとの誤解を招く誌面にショックを受けましたが、暴力行為を目にした現場で傍観者になってしまったことも加担と言えますし、その目撃談を語ってしまったことは自分にも責任があると感じ、当時は誌面の訂正を求めず、静観するという判断に至ってしまいました。
--- 9月17日、小山田圭吾【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】

それともう一つ、違和感があったんです。あの騒動の発端となったブログ記事です。
問題となっている『クイック・ジャパン』『ロッキング・オン』の原文を読むとわかるんですが、ブログの書き方は非常に恣意的で、原典となる2つの記事を正確に引用したとはとても言えないものだった。小山田氏が辞任した時の謝罪文にも、「事実と異なるところがある」と書いてありました。
--- 10月14日、中原一歩「なぜ小山田圭吾は『週刊文春』での独占インタビューに応じたのか?“音楽ロッキン村”問題を今考える

小山田圭吾が7月16日付けの声明において「事実と異なるところがある」と指摘したのは「発売前の原稿確認ができなかった記事」である。
しかし中原一歩は、小山田圭吾が7月16日付けの声明において「事実と異なるところがある」と指摘したのはブログであると言っている。
--- 「週刊文春は小山田圭吾問題の「裏」を把握しているのか

さて個人のブログのデマを言い出したのは誰だったか。 そう北尾修一だ。 では小山田圭吾が7月声明で指摘した誌面のデマを個人のブログのデマにすり替えたのは誰だったか。 そう北尾修一だ。

10月14日、小山田圭吾が7月声明で指摘した誌面のデマを個人のブログのデマにすり替えてしまったのは誰だったか。 そう中原一歩だ。

【重要】先ほど配信した記事に誤りがありました。以下の通り、訂正をさせていただきます。
誤)→「つまり、この話もさも自分が強要したように「盛って」語ってしまったのだ」
正)→このエピソードをあたかも小山田氏がやったかのように「盛って」掲載したのは、雑誌の側だというのだ。
--- 中原一歩 @ipponakahara 午後1:35 ・ 2021年12月27日

おそらく『ロッキング・オン・ジャパン』1994年1月号の記事は、もっとずっとシンプルな話なんです。これは推測ですが、インタビュアーへのリップサービスで、小山田さんが学生時代の出来事を大げさに話したのではないでしょうか。そしたら、それを誌面にそのまま載せられてしまったと。現在は知りませんが、当時の『ロッキング・オン・ジャパン』がミュージシャンに原稿チェックさせなかったのは有名な話です。
--- 7月23日、北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」

まあ、だからなんだと言う訳ではない、が。
間違いは誰にでもあるし、私が大変恣意的に誘導したこれは言いがかりの類だろう。

ただ、小山田圭吾問題は複雑だ。

中原一歩には慎重な記事作成を期待する。

元々『クイック・ジャパン』の出版元である太田出版も、1993年に『完全自殺マニュアル』という本を出して社会問題になりました。
1995年には文藝春秋社が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、「ナチ『ガス室』はなかった」とホロコーストという歴史的事実を否定するような記事を出し、大きな問題になりました。
雑誌は廃刊となり、当時の社長は責任を取って辞任しましたが、当時の雑誌カルチャーには人権を軽視したり、歴史的事実を捻じ曲げても話題になり、売れたらいいという露悪的なカルチャーがあったのです。
--- なぜ小山田圭吾は『週刊文春』での独占インタビューに応じたのか?“音楽ロッキン村”問題を今考える

…ん?

次回、「キャンセルカルチャー」お楽しみに!


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