私は小山田圭吾を良く思っていない。
便宜上、良く思っていないという表現を使ってはいるが、私が実際どう思っているかに関しては読者の皆様のご想像におまかせしよう。恐らくそのご想像とやらは間違っていないだろう。そしてそれが間違っていようが私は気にしない、といえば私が小山田圭吾をどう思っているかについて考える一助にでもなるだろうか。まあその程度だ。
小山田圭吾問題において「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」というものは重要なソースだ。 この連載では以前にも「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」について取り上げた(「狡知 09 「いじめ紀行を読んで」 | 敬称略雑記」)。 北尾修一により「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」のキャプチャーが頒布された7月当初、これでも私はあれを好意的な読み方のもとに読み、そしてあまりに牧歌的に読んでしまっていた。 今回から数回に分け、小山田圭吾による21年9月17日付け声明を受けてだっただろうか、21年9月中頃に「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を読み直して持ったある「疑念」について語らせてもらおう。
私にとって「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」とは何なのか、2月現在に繋がる読み方だ。
しかしそれを語る前にある背景を共有しておかなければならない。
まずはそれにお付き合いいただこう。
冒頭で言及されたいじめとは
去年の十二月頭、新聞やテレビでは、いじめ連鎖自殺が何度も報道されていた。「コメンテーター」とか「キャスター」とか呼ばれる人達が頑張ってください」とか「死ぬのだけはやめろ」とか、無責任な言葉を垂れ流していた。嘘臭くて吐き気がした。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 053p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
これは何について言及したものなのか。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載されたクイックジャパン第3号は95年発売だ。 ということは94年12月の時点を参考にする必要がある。 「いじめ紀行」の中に「マット」に関する言及があるため、「山形マット死事件」(山形マット死事件 - Wikipedia) と混同しがちだがこれは93年だ。
94年のいじめとはなんだったのか。
愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件
1994年11月、愛知県西尾市で、当時中学2年生だった大河内清輝君が自宅近くの工場で首吊り自殺をした。その後、遺書・旅日記が発見され、いじめを苦にした自殺と、大々的に報道された。この事件において我々に衝撃を与えたのは、遺書の中に書かれていたいじめの内容であった。総額100万円を超える金銭を脅し取られていたこと、近所の川で溺れされそうになったなど、いじめの詳細が克明に記述されていた。
この事件後も、いじめを苦にしたと見られる子供の自殺が相次ぎ、いじめに関わる問題が、連日のように各メディア上で論じられた。年が明け、1995年になるとすぐ、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件と、大きな事件が立て続けに起きたため、いじめ問題のメディアへの登場機会は減ってしまった。
--- 第1章 いじめの現状
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」冒頭で言及されたものは「愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件」(愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件 - Wikipedia)からの流れのことだろう。
大河内祥晴さん
自殺した大河内清輝さんの父、大河内祥晴さんは清輝さんの死と向き合い、いじめと向き合った。
大河内: 今までさっきあった手紙もそうですけれども、やっぱり勤めの中で、「じゃ、ああいう子たちとほんといつもにこういう話ができるか」と言ったら、やっぱりできないところがあるんですよね。で、手紙を貰っても、ほんとにしっかり返事ができない子がいますし、だから自分としてはやはりそういう子たちに対して、ほんとにもっと近づいてあげられる時間がほしかった、というのがずっと自分の気持の中にあります。そういう意味で、定年後というのはやはりそういう時間に使いたい。今まで子供たちからいろいろ教えて貰ったことから、清輝が亡くなった後の自分の気持というんですかね、家族含めたそういう気持。清輝の周りにいた同級生たち、清輝の中学校の後輩の子供たち、そういう気持をもっと近い立場で、もっとそういうことを伝える時間がほしい、というのをずっと思っていたもんですから、「じゃ、何がいいのかなあ」という。まあ十一年経っているもんですから、どっちかといえば、清輝の時間もだんだん忘れ去られていって、「こんなことがあったの」っていう人もいますし、今の東部中学校の先生をを見ても、やはり「知らなかった」という先生も見えるわけですよね。だからそこの中でもう一度それを伝えていきたい。
--- 子をなくした父として
「清輝が亡くなって以降、夫はいじめ自殺を一件でも減らすのが自らの使命と言い聞かせ、最後の最後まで活動を続けた。最期は安らかだった」
--- 大河内祥晴さん死去 いじめ自殺、清輝さんの父:中日新聞Web
大河内祥晴さんは21年8月24日、亡くなる。
大河内清輝さんのいじめ自殺に端を発すると思われる「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」、それが数十年の時を経て五輪において問題視されたその翌月だ。
友情があっただの障がい者と対等に付き合っていただの、どうしようもないあの擁護が盛んに行われていたあの8月だ。
いじめの矮小化
「友情があった」「遊びだった」「そういう時代だった」「~しただけじゃん」
大河内祥晴さんの前でそれを語る自信はあるだろうか。
小山田圭吾擁護派による「いじめの矮小化」(「記号化され矮小化された問題 | 敬称略雑記」)というものが私にとってどれほど醜い物と映ったか。 大河内祥晴さんが行ってきた事を否定し、大河内清輝さんがいじめられた意味までをも毀損しかねない行いだ。 これを小山田圭吾擁護派は、小山田圭吾のためどころか、ファンである自身の保身のために行っている節すらある訳だから驚きだ。
小山田圭吾擁護派を唾棄に値すると断言する事に私が何らのためらいを持ち合わせていない理由のひとつだ。 そして私がこの連載を書いている理由のひとつでもある。
いじめ紀行
私はこれから「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を悪く言う。 21年9月当時、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を改めて読み直し、そう読んだからだ。
21年9月当時の時点で小山田圭吾擁護派による、個人を集団で吊るし発言を撤回させ裏で笑い、仲間内でくだらねぇ解釈を重ねいじめを矮小化しそれがファクトであるかのように喧伝するという一連の動きはすでに確立されていたように思う。 そうあの極めて打算的に小山田圭吾の声明すらをも無視しながらひたすらに過去の上書きを試み、被害者と潜在的な被害者達、そして小山田圭吾当人への軽視に満ちたあの擁護だ。
小山田圭吾擁護派によるこの愚行の上で、なぜ私が「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を好意的に読まなければならないのか。「あの」小山田圭吾擁護派のお気持ちのために「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を私が好意的な解釈のもとに読む必要がどこにあるのか。
「改めて読み直した」というのは、そういう色眼鏡をかけた上で読み直した、という意味でもある。