この大長編もいよいよ佳境だ。 4月1日現在、3月後半の関東における電力逼迫や新電力倒産を受け、世論は「電気」へとその目を向けている。 こういう書き出しで始めると、どうせこのクズはお前らはウンコだのオナニーだの読むために電気代を払っているわけだがと内心バカ笑いしているに違いないなどと勘ぐりだすであろういつものクズどもの姿が目に浮かぶ。 私はこれまで常に理性的に真摯にそして誠実に、安心と安全を掲げながら、時にウンコだのオナニーだのとろくでもない表現を用いる必要に迫られまさに苦渋と言わざるを得ない決断を重ね私自身クソまみれになりながらも、私にとっての小山田圭吾問題というものを説明してきた。私がこの状況に舞い上がりウンコだのオナニーだの配信するというおよそ電力の浪費という意味では最悪に幼稚な環境負荷を代償に何銭かという微々たる電気代をどうこう言ってバカ笑いする人物か、一度冷静に考えてみたほうがいいのではないだろうか。
くわえて、談話者である小山田さんにこの内容を公の場で語ってもらうことになる以上、聞き手(書き手)も同等に「悪質」でなければ不誠実だという意識もあり、通常の意味でのバランスを取った記述はしない、という選択を意図的にしました。
--- 村上清「1995年執筆記事「いじめ紀行」に関しまして」
今に限らないが私はこの心境にある。 私はこの「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」に付き合っているに過ぎない。 ウンコバックドロップ(デマです)にしてもそうだ。
「付き合っているに過ぎない」
当然これは、私が当事者ではないから言える話だ。
以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 064p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
では小山田圭吾は当事者だろうか。当たり前だ。 こんなことすらいちいち確認しなければならない現状がある。 私や世間が小山田圭吾擁護派をどういう存在と見ているか、これで少しは理解が進めばとは思うが、そもそもこれでどうにかなるならああなってはいなかっただろう。 赤田祐一は当事者だろうか。北尾修一は。森某、そして村上清は。 このように範囲を拡大させていけばどこかで、当事者ではない利害関係者だ、利害関係者ですらない部外者だ、といえるようになるのだろう。 しかし残念ながら赤田祐一も北尾修一も森某も村上清も、当事者だろう。 カメラマンという役割がどれほどあの内容に関与したか不幸にも当事者となってしまった森某には一定の同情を寄せよう。 しかし文句は村上清に言うべきだ。
さて今回、ようやく「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の正体について触れる。 当然これは私の解釈だ、ということを決して忘れないでいただきたい。
私はこれまでの数回で、「いまは無いらしい」とされた養護施設が実はあるようだという事、そして、「田園調布の沢田(仮)」は田園コロシアムでの沢田研二のライブから生まれた設定なのではないか、という事を説明してきた。 安全に「あの内容」を語るためそうしたのだろうか、私はそれを強く疑っている。
年賀状
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」最終ページと思われる箇所には「沢田(仮)から小山田圭吾へ送られた年賀状」が掲載されている。 さてここで単純な疑問が湧く。あの面子がバカ正直に掲載許可など取るだろうか。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」にはあれが「沢田(仮)から小山田圭吾に送られた年賀状」であるとは一言たりとも書かれていないこと、ご存知だろうか。ではなぜあれが「沢田(仮)から小山田圭吾に送られた年賀状」であるとされているのか。
沢田からの年賀状
「肉体的にいじめてたってのは、小学生ぐらいで、もう中高ぐらいになると、いじめはしないんだけど……どっちかって言うと仲良かったっていう感じで、いじめっていうよりも、僕は沢田のファンになっちゃってたから。
(略)
それで、年賀状とか来たんですよ、毎年。あんまりこいつ、人に年賀状とか出さないんだけど、僕の所には何か出すんですよ(笑)。で、僕は出してなかったんだけど、でも来ると、ハガキに何かお母さんが、こう、線を定規で引いて、そこに『明けましておめでとう』とか『今年もよろしく』とか鉛筆で書いてあって、スゲェ汚い字で(笑)」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 057-058p 中段注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
そして、卒業式当日の沢田君と小山田さんのエピソードが披露され、記事本文は終わります。最後に、沢田君が小山田さんに送った年賀状の実物が掲載されています。
北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた?」
記事の最終ページに掲載された「沢田君」からの小学生時代の年賀状の意味も、〝今にして思えば〟イジメでしかなかった当時の関係を小山田氏なりに反省していて、今でも年賀状をちゃんと取ってあるように主観的にはこの頃からずっと「友達」のつもりでいたんだけど、そう受け取ってはもらえなかったかもしれん、すまん、の意味でしょう。もちろんそれがほとんど伝わらないわけですが、村上氏の地の文のせいで。
外山恒一「小山田圭吾問題の最終的解決」
また原文記事の最終頁に小山田さんの同級生だったSさん(仮名)の年賀状が掲載されていますが、これも当初から「晒して馬鹿にする」という意図は全くなく、元記事全文の様々な文脈を経て終盤で語られる、Sさんと小山田さんの間にあった不思議な交流、友情の挿話に即して掲載されたものです。
村上清「1995年執筆記事「いじめ紀行」に関しまして」
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」では「沢田(仮)から小山田圭吾へ送られた年賀状」であることをにおわせているにすぎない。 北尾修一と外山恒一が極めて早期に「沢田(仮)から小山田圭吾へ送られた年賀状」とことさらに強調することで、これは「沢田(仮)から小山田圭吾へ送られた年賀状」であると刷り込まれ、後に出された村上清の声明が答え合わせとしてそれを補強した。 ちなみに小山田圭吾は7月声明においては言及すらしておらず、北尾修一臭のする9月声明においても消極的に言及するのみだ。
北尾修一が最も避けたかったのは、出版側の責任を問うために誌面が読まれる事だろう。
--- 「狡知 06 「腐臭」 | 敬称略雑記」
「年賀状」はまともに検証されたことがあっただろうか。
「年賀状」
まずはこの「年賀状」について把握しておこう。 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」最終ページとされる箇所に掲載され、はがきの通信面を表に何らかの台紙へ貼った状態のものをコピーした、という風に見えるものが「年賀状」だ。 なんだか遺影の額縁を連想してしまうのは私がかけている色眼鏡のせいだろうか。何色の色眼鏡かはぜひ読者の皆様方でご想像いただきたい。…まあそれはいい。
明けましておめでとうございます。
手紙ありがとう。
三学期も頑張ろう。
昭和五六年元旦
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 072p 中段注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
年賀状に書かれた内容は簡潔だ。 昭和五六年は1981年、国際障害者年でもある。 小山田圭吾の誕生日は「1969年1月27日」であると信じるならば、 1969年早生まれは1975年4月に小学校入学だ。 80年4月からは小学6年生、81年4月から中学生となる。 中学校への進学を数ヶ月先に控えた小学6年生当時の手紙、ということになるだろうか。
「僕とこいつはクラスはクラスは違ったんですけど、小学校五年ぐらいの時に、クラブが一緒になったんですよ。」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 056p 中段注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
小学5年から始まった毎週土曜日二時間程度、教師不在の狭い教室での太鼓クラブという接点が、箱詰めにしての毒ガス攻撃や実験を経て友情を生み年賀状をやり取りする間柄を育んだということだろう。
ソースとして用いる事ができるか
ところで「沢田(仮)から小山田圭吾に送られた年賀状」を拡大して見たことはあるだろうか。 幸いなことに北尾修一による連載記事「いじめ紀行を再読して考えたこと」にて頒布された誌面キャプチャー(以下北尾ソース)はなかなかの解像度でスキャンされていた。
この画像は北尾ソースを拡大表示したものを等倍キャプチャーしたものだ。 北尾修一による(イラつく)蛍光ペンマーキングの濃淡や、印刷の具合まで把握できる。 文字とは対照的に石川さゆりの写真が荒く見えるのは95年当時の出版物であると考えれば仕方がない。
煙の輪の内側が切り抜かれ、枠線が見えている。なかなかに芸が細かい。 95年の当時はちょうど印刷業界においてデジタル化が進んでいた時期にあたるそうだ。 QuickJapan3号の当時、どういう環境であったのかは分からない。 とはいえ、およそ30年前といっても、この類の検証に用いるには充分な印刷品質、そしてスキャン品質を持っているようだ。
現在、「年賀状」のスキャンはいくつか出回っている。
北尾ソース以外には、「『Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」 17 - 『Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」全文」において掲載されたキャプチャーが存在する(以下、全文ソース)。 幸いなことに北尾ソースと全文ソース、どちらも高い品質でスキャン(撮影)されており、これらを突き合わせることで印刷の具合や汚れといった個体差を除外することが出来る。
額縁
まずは小手調べだ。
この「年賀状」は経年劣化によってか角が丸くなっているように見える。 今回は特に、手前側へめくれているようにも見える右下に注目する。 これを拡大してみよう。
左が北尾ソース、右が全文ソースだ。
線の凹凸が一致している点は特筆に値する。 この時代の印刷技術は、実はかなりの精度を持っていたという点、最早疑う余地は無いだろう。 そして如何だろうか。 なんだかボールペンかなんかで雑に描いたように見えてはこないだろうか。 上から下へ一本線を引いて少し勢い余りましたとでもいいたげな「ひげ」まで付いている。 はがきをおいて、それに沿ってペンで書いたんじゃねーのかこれという私の疑念は妄想の類なのだろうか。
よく見てみると上の「たわみ」も不自然だ。 影が太くなっているからそこがたわんでいるのかと補助線(赤)を引くとほぼ直線。 つまり台紙のほうがたわんでいるということになる。 どういう事だろうか。
むらかみ・きよし●一九七一年兵庫生。ミニコミ『月刊ブラシ』編集人。池袋で世界のタバコを売りつつ、数々のインタビューを行う。コピー機が好き。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 071p 注釈 (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
コピー機が好き。まあ個人の趣味嗜好にとやかく言うつもりはない。 わざわざ注釈にいれるということは、コピー機を活用し作られた誌面である、ということだろうか。 であれば石川さゆりに限らず誌面掲載の写真が妙に荒いのも合点がいく。 ではあの年賀状もコピーなのだろうか、そしてコピーであのような影が出るというのはどういう事なのだろうか。
これ移行、北尾ソースを中心に引用するが、全文ソースと突き合わせた上で検証を行っている。
縦線
まだまだ序の口だ。 沢田(仮)の母親が書いたという線に着目してみよう。
線の始まりは左にいくほど下がってはいるが概ね揃っている。 では線の終わりはどうだろうか。 3本目が特に短い。 そして、3行目の文もまた短い。 予め考えられた文章に合わせ線の長さを決めたのだろうか。 それでは「明けましておめでとう」「ございます。」の2行で、線の長さが同じであることの説明がつかない。 「明けまして」「おめでとうございます。」とする予定であったとしてもそれは同じだ。 どうも不自然だ。
ちなみに、この線を「後から描かれたもの」だと考えれば何の不自然もないことは言うまでもない。
「頑張る」
さてようやく本題に入る。
「頑張ろう」の「頑」に注目しよう。
よく見てみると「が(か)」と書いた上から「頑」の文字が書かれていることが分かる。 手直しをした、ということだろう。
そもそも小学六年生は「頑張る」と書けるのだろうか。 「小学校学習指導要領 昭和52年7月告示」、「第1節 国 語」の中に「頑」は無い。 移行期間を考慮し、前回改訂である「小学校学習指導要領 昭和43年7月告示」、「第1節 国 語」を見てもやはり無い。
当時の小学校学習指導要領の中に「頑」は無いのだ。 では中学校で習うのかと言えば、中学校で習う漢字はそもそも指定されていない。
(2) 漢字に関する次の事項について指導する。
ア 第1学年で学習した当用漢字の読みに慣れ,更にその他の当用漢字を300字ぐらいから350字ぐらいまで読むこと。
イ 学年別漢字配当表の漢字を主として,1,000字程度の漢字を書くこと。なお,それ以外に上記アで学習した当用漢字についても,必要な場合,適切に用いるように努めること。
--- 「中学校学習指導要領」、「第1節 国 語」
誰が手直しをしたのか。 縦線を引いたのは沢田(仮)の母親だとされている。 ならば手直しをしたのも沢田(仮)の母親だろうか。 ではなぜ、手直しをしたのか。 「頑張ろう」と漢字で書けない事は、恥ではない。 その上で、沢田(仮)の母親が「が」を上書きしてまで漢字へと手直しをするだろうか。 「が」と書き始めたのを尊重し、平仮名で続けるのが自然な流れではないか。
筆跡
さてこの「年賀状」の本文、少なくとも沢田(仮)と母親で書かれていることはおわかりいただけただろうと思う。 では改めて筆跡に着目しながら「年賀状」を見てみよう。
一行目の「明けましておめ」まで、強い筆圧で、強い力をこめながら書いているような筆跡だ。 フェルトペンだろうか、紙に対する摩擦が多い系統の筆記具と見えるが、この筆圧をかける事が出来る筆記具は限られているだろう。
続く「で」を見てみよう。 力のこもったそれまでとは対照的に、流れるような筆使いだ。 達筆かどうかは判断しかねるが、少なくともそれまでの筆使いとは対称的だ。
続く「とうござい」ではわざと投げやりに無気力な様子の筆使いになっている。 これはボールペンだろうか。それまでと明らかに文字の太さが違う。
続く「ます。」、勢いと流れを感じる筆跡だ。
「す。」を詳しく見てみよう。 かなり特殊な書き方をしているように私には見えた。 文字を早く書くことを意識した書き方のようでもある。
「手紙ありがとう。」、「明けましておめ」と似た印象を受けるが筆圧は明らかに弱くなっている。
特に「紙」、筆運び自体はとてもスムーズでトメ・ハネ・ハライ、いずれも出来ている割にどうにも不自然な投げやりさが鼻につく。
「昭」、漢字を書きなれている筆使いの割に、字自体は評価が分かれるところだ。 というより母親が書いたものだとすれば、常識的に考えてさすがにもうちょっと丁寧に書くだろう。
「元旦」、これは達筆と言っていいだろう。「旦」などは口をへの字とした顔のようにすら見える。「で」を彷彿とさせる筆使いだ。
さてこのように「年賀状」の筆跡を詳細に見ていくと、ある疑念が沸かないだろうか。 これは、本当に沢田(仮)と母親が書いたものなのか、と。 そして、わざとくずして書いた字なのではないか、と。
そもそも掲載許可だのなんだの必要の無いやり方が、あるにはある。 誰もが一度はそう考えるが、まさかなと刹那にその考えを捨てる例のヤツだ。 こう恣意的に誘導したこの疑念は、あくまで私の推測に過ぎず、あらゆる証拠は存在しないということをくれぐれも忘れないで頂きたい。
私が考える「年賀状」そして「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」の正体、見えてきただろうか。
インタビュー記事なのか
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は前後半で大きくその性質を変えている。 前半は小山田圭吾の語りに対する返答はほぼ無く独白に近い形であるのに対し、後半になりようやく、いわゆる通常のインタビューと言える発言の応酬が発生している。
では前半部分は一体、何なのか。
「打ち合わせ」
北尾修一はこれを打ち合わせと表現した。
それが、誌面に掲載された小山田さんの発言の数々(いじめ自慢パート)です。
ただ、冷静に考えると、この時の話は《打ち合わせ》です。小山田さんへの《インタビュー》ではありません。
--- 北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」
「打ち合わせ」、不自然な「年賀状」、「掲載許可」、「いまは無いらしい」とされた養護施設、「田園コロシアムの沢田(仮)」、だんだんモヤモヤの正体が目の前に……。
改めて誌面前半を読んでみよう。 ほぼ小山田圭吾の発言で構成されていることは言うまでもない。 「」にて括られる発言、それぞれの分量がまず多い。 小山田圭吾が延々これを独白していたか、だとすれば明石家さんまもびっくりのマシンガントークではないか。 北尾修一の言う通り、すくなくとも「インタビュー」ではなさそうだ。
合いの手
小山田圭吾2万字インタビューの問題視されている部分を思い出してみよう。 小山田圭吾と山崎洋一郎のろくでもないやり取りだ。 問題の箇所では山崎洋一郎がなぜか所々キレ気味なのが醍醐味だろう。 ここで言いたいのはそういう事ではない。 小山田圭吾2万字インタビューはまぎれもなくインタビューだ。 発言量の偏りはあるとしても、発言のやり取りになっている。
では、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」はどうか。後半を見てみよう。
―――やっぱ、できることなら会わないで済ましたい?
「僕が? 村田とは別に、あんま会いたいとは思わないけど。会ったら会ったでおもしろいかなとは思う。沢田に会いたいな、僕」
―――特に顔も会わせたくないっていう人は、いない訳ですね?
「どうなんだろうなあ? これって、僕って、いじめてる方なのかなあ?」
―――その区別って曖昧です。
「だから自分じゃ分かんないっていうか。『これは果たしていじめなのか?』っていう。確かにヒドイことはしたし」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 068p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
そして村上清もなぜか所々キレ気味なのであった。 分からないでもない。 そして、およそ三十年後、小山田圭吾に付き合っただけと遠回しに言いたくなる気持ちもまた、まあ分からないでもない。
後半に関しては、インタビューとして成立しているようだ。
では、前半はなぜ独白に近い形になったのか。行間に何があったのか。 当然、小山田圭吾がヤバいことを勝手にノリノリでただひたすらに喋り続けていた可能性もある。 しかし現実的には、編集側の「合いの手」があったと考えるのが自然だ。
そして話は小山田圭吾のこの発言へ戻る。
「段ボールの中に閉じ込めることの進化形で、掃除ロッカーの中に入れて、ふたを下にして倒すと出られないんですよ。そいつなんかはすぐ泣くからさ、『アア~!』とか言ってガンガンガンガンとかいってやるの(笑)。そうするとうるさいからさ、みんなでロッカーをガンガン蹴飛ばすんですよ。それはでも、小学校の時の実験精神が生かされてて。密室ものとして。あと黒板消しはやっぱ必需品として。〝毒ガスもの〟として(笑)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 062p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
これは、「こういう文脈で扱ったら面白いんじゃないか」という意味にも取れる事、おわかりいただけただろうか。
「~がテーマなら、密室ものとして、毒ガスものとして、こういう描写があったらどうだろうか」
…こういう事だったのではないのか?
QuickJapan 3号
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載されたQuick Japan 3号、他の内容を見てみよう。
【FUTURES】
全力特集 ぼくたちのハルマゲドン
マンガで読む、“最終戦争”完全カタログ
◆『マンガ家とハルマゲドン』
interview……永井 豪・楳図かずお・しりあがり寿
◆竹熊健太郎:『おたくとハルマゲドン』
「なぜおれはオウム真理教に入信しなかったか」
◆古川益三:『マンガとオウム』
「うわべだけで生きておると、やがてひっくり返る時がくるぞ!」
◆古賀 学(Pepper Shop):『フレームの中のフレームの中のリアル』
Interview……予言脚本家・伊藤和典
◆米沢嘉博:『なぜ“最終戦争”なのか?』
including……ハルマゲドン・マンガの50年史(年表&作品リスト)【REGULARS】
◆強力企画 新連載・村上 清の“いじめ紀行”
第1回ゲスト・小山田圭吾(コーネリアス)「学校でウンコするとかっていうのは、小学生にとって重罪じゃないですか?」
◆中森明夫:トンガリキッズ・ニュースVOL.3『TOKYO GOCCO!』
「ぼくたちには額縁が必要なんだ」
◆大泉実成:消えたマンガ家 第2回
『“人間時計”はどこに…!? 幻のマンガ家・徳南晴一郎を追って』【COMIC】
井上三太:新連載!!『Born 2 Die』【DEPARTMENTS】
クイック・ジャーナル
偽取材者、D君の奇妙な肖像を追う/“BIKKE”(TOKYO No.1 SOUL SET)インタビュー』/伊豆レイヴ完全ルポ/オランダサブカル雑誌『HYPE』/制服向上委員会/松永豊和インタビュー/路上全裸事件顛末記/東京グラフィティ・シーン/淡路島で紙芝居の墓場を見た!/テクノ・レボリューション/女子高生テクノ日記/オウム“追っかけ”少女
--- QuickJapan vol.03 - QJ 100th ISSUE ANNIVERSARY
地下鉄サリン事件はオウム真理教によるハルマゲドン予行だとする説がある。 見ての通りQuickJapan3号には、オウム真理教を意識した記事が多い。 QuickJapan3号が発売されたのは1995年7月、地下鉄サリン事件は1995年3月、そして「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」前半インタビュー収録は1995年4月だ。なるほど95年の当時、雑誌というものが作られるのに時間を要した事は想像に難くない。
小山田圭吾がウンコだのオナニーだのチンポがデッカいだのチンポ丸出しでウロウロしていただのと語った事はともかくとして、『夕刊フジ』の地下鉄サリン事件増刊号を小脇に抱えながら現れ、密室だの毒ガス攻撃だのと語ったのは、編集側の意向という側面もあったのだろうか。
ところで「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」誌面キャプチャーの最終ページにチラ見えしていた謎の漫画「まどの一哉 漂泊」の文字が見当たらないが、太田出版にとってあれは黒歴史扱いなのだろうか。
共同作業
小山田さんがM氏に、「《打ち合わせ》の時にふたりで話した内容を《インタビュー》ということで記事にしていいよ」と後日許可したからです。
でも、これって変ですよね?
北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」
でも、これって変ですよね?
以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 064p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
おそらく、念のため打ち合わせを録音していたのでしょう。
--- 北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか」
…ん?
沢田(仮)
年賀状、もうあえて言うまでもないだろう。 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」前半の「打ち合わせ」時に当事者達によって作られたものではないか、私はそう疑っている。
では、沢田(仮)も完全に架空の人物だったのか。
その可能性ももちろん、ある。 しかし小山田圭吾は声明で、黒板消しでのいじめを強調した上で、強い後悔を示した。
カドカワの「K」、田園調布の沢田(仮)、確信にせまる次回、乞うご期待。