私は、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は小山田圭吾の表現である可能性が高いと考えている。
前回(狡知 21 「再びいじめ紀行を読んで 4」 | 敬称略雑記)、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を私はどう読んだかと語る流れの中で、「あの年賀状」がどうも不自然に見えるという話をした。そもそも掲載許可の問題があり、その上で本文中それが「沢田(仮)から小山田圭吾へ送られた年賀状である」とは一言たりとも書かれていない事、さらにはあの筆跡、原本は別にあるとしても、もうちょっとマシな模写を期待してしまうのは人として極めて自然な姿であると我ながらしみじみと思う。
私は、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」という記事が、本当に「いじめ問題に一石を投じるため」という意図をもとに書かれたのかという点をまず疑っている。 「いじめ問題に一石を投じるため」に、掲載許可など得られるはずもないあの表現は必要だったのか。 極めて問題のあるあの内容を安全に掲載する方法があるにはある、が、「いまは無いらしい」とされた養護施設や「不自然な年賀状」はそういう事なのだろうか。
もちろん、私にはそう読めたというだけの話であり、それ以上でもそれ以下でもないことは言うまでもない。
ところであの「年賀状」、沢田(仮)が書いたであろう部分はどこだろうか。
前回指摘しただけでも、「たどたどしい筆跡(明けまして)」「勢いのある筆跡(ます。)」「字を書きなれているが妙にくずした筆跡(昭)」という、「ただの達筆?(で、元旦)」それぞれに特徴的な筆跡だ。 当然、「たどたどしい筆跡」の部分が沢田(仮)によるものであると私たちは勝手に判断する。 ところでそれは、差別と言えないだろうか。
小山田圭吾の声明を尊重すれば、全てが表現であるというわけでもなさそうだ。 「いまはもう無いらしい」とされる養護施設が実は現存するようだという事、「田園調布の沢田(仮)」は「田園コロシアムの沢田研二」から来ているのではないかという事、これらはそれぞれが全て捏造であるということを否定する。
村田(仮)をロッカーに閉じ込め蹴り飛ばしたといういじめに、黒板消しを用いた描写はない。しかし、「夕刊フジ」地下鉄サリン事件増刊号を小脇に抱えながら現れた小山田圭吾は「毒ガスものとして」とそれを語り、誌面においては「毒ガス攻撃」という副題が付けられた。当時のQuickJapan3号目次に踊る「ハルマゲドン(オウム真理教、地下鉄サリン事件)」の文字、ほぼ全ての記事がそれを取り上げていた。「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」もまたその文脈下にあったのだろうか。
前回、そんな事を語った。
私は小山田圭吾を良く思っていない。 では何を良く思っていないのか、今回はそこに触れる。
あの面子がバカ正直に掲載許可を取るだろうか、あの内容はそこまでして掲載するほどのものか、この2点のみで色々と察しは付きそうなものだが、友情物語だのフラットな視点だの何色の色眼鏡だそりゃと呆れかえるほどまさに昭和な感覚で未だ語られる「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」。
小山田圭吾問題を語る上で忘れがちな点がある。「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」によると、沢田(仮)は高校を卒業したらしいのだ。
高校への進学
当時の和光学園において、高校への進学というのはどういう意味を持っていたのか。
2 .高校においては,高校普通教育課程に耐え得る学力を有することを判定基準とする。ただし,肢体不自由者については可能な限り特別措置をとる。
高校レベルに達すると,障害児と障害のない子どもの間に「共通項」が狭くなってくることに鑑み,和光学園では,幼稚園から中学校までが内部進学制度で結ばれているが,一般には義務教育と考えられていない高校では「学力」を特に転入学の基準として当てはめるという基準を示したのである。
--- 和光学園における「共同教育」の提唱と盲児の統合教育─映画『みんなでうたう太陽のうた』(1978年)─
「高校普通教育課程に耐え得る学力」が求められている。 そして沢田(仮)は高校へ進学し、小山田圭吾と同年、卒業した。「留年せず」「卒業した」らしいのだ。
「中三の時、一コ上の先輩でダブッちゃった人が下りてきたんですよ、ウチのクラスに。で、その人が渋カジの元祖みたいな人で。(略)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 063p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
義務教育であるところの中学校で留年した渋カジは一体何をやらかしたのか、沢田(仮)との対比はむしろ鮮烈さをすら感じさせる。
沢田(仮)の当時は、高校進学の際に「学力」を基準とするという方針はなかったと考える事もできる。 沢田(仮)が転入したのは小学2年(1976年)、共同教育の文脈で転入したとすれば他学年においても同様に転入を受け入れていたと考えるべきだろう。 その沢田(仮)の高校進学は、小学2年での転入から6年後の話だ。 その方針が後から設けられたものだったとしても、6年後の沢田(仮)の高校進学時においては、学力が基準とされていたと考えるほうが妥当だろう。
つまり沢田(仮)は和光学園高等部へ進学する学力を持っていた、ということになる。
長谷川(仮)
「あと、沢田じゃないんだけど、一個上の先輩で……そいつはもう超狂ってた奴だったんだけど……長谷川君(仮名)という人がいて、(中略、電車の中でオナニーしただのビンビンだっただの)、かなりキてる人で、中学だけで高校は行けなかったんだけど。(略)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 059p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
長谷川(仮)は高校へは行けなかったようだ。 高校への進学を希望しなかったという可能性もあるが、義務教育から外れる高校においてはやはり学力を基準とし、内部進学制度とは別の力学が働いているようだ。 ちなみに村田(仮)は定時制高校を選び、和光からは離れることになる。 渋カジのその後は不明だ。
沢田(仮)、その描写
「沢田っていう奴がいて。こいつはかなりエポック・メーキングな男で、転校してきたんですよ、小学校二年生ぐらいのときに。それはもう、学校中に衝撃が走って(笑)。だって、転校してきて自己紹介とかするじゃないですか、もういきなり(言語障害っぽい口調で)『サワダです』とか言ってさ、『うわ、すごい!』ってなるじゃないですか。で、転向してきた初日に、ウンコしたんだ。なんか学校でウンコするとかいうのは小学生にとっては重罪だっていうのはあるじゃないですか?で、いきなり初日にウンコするんだけどさ、便所に行く途中にズボンが落ちてるんですよ、なんか一個(笑)。そんでそれを辿って行くと、その先にパンツが落ちてるんですよ。で、最終的に辿って行くと、トイレのドアが開けっ放しで、下半身素っ裸の沢田がウンコしてたんだ(笑)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 055-056p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
小山田圭吾が(言語障害っぽいっぽい口調で)「サワダです」と言い、村上清がそれを拾い「(言語障害っぽい口調で)」と強調する、大変心の暖まる共同作業じゃあないか。 音楽家小山田圭吾の「サワダです」ぜひ聴いてみたいもんだ。 この他にも、週一くらいでウンコ漏らすだの、村田(仮)は沢田(仮)よりも普通に話せる(つまり沢田(仮)は普通に話せない?)だの、小田急線でコケコッコーと叫んだり女子高生の足に抱きついたりしただのと、散々に描かれている。
これらの描写は、沢田(仮)の人物像へ極めて強い先入観を与える。
藤山良夫
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」で語られる「沢田(仮)」、どういう人物像を脳裏に描いただろうか。
「その中で沢田って、その人たちからしてみれば、後輩なんだけど、体とかデカい、でも、おとなしいタイプなのね。フランケン・タイプっていうか。だけど怒らすと怖いって感じで。(略)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 061p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
大友克洋「童夢」(1980年~ 1983年単行本)には「藤山 良夫」(通称ヨッちゃん)という人物が登場する。 私が「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」から当初得た「沢田(仮)」のイメージはまさに、「ヨッちゃん」だ。
ちなみに岡崎京子「リバーズ・エッジ」の「よっちゃん」ではない。岡崎京子が小沢健二のライブへという話は公開されている。そしてコーネリアスライブにおける車椅子の観客へのサービスという話もある。北尾修一による「いじめ紀行を再読して考えたこと」への反発は「では誰を守っているのか」という話にも繋がり、小沢健二と並び岡崎京子は当時その上位にあった。リバーズ・エッジは2018年、小沢健二による主題歌を伴い映画化される。そしてそのロケ地(の一部)として和光学園が選ばれた。そして「前略 小沢健二様」(太田出版1996)の存在。小沢健二はともかく岡崎京子は違うだろうという暗黙の合意が広く形成されていた訳だが片岡大右はその論説の中で必ずしも必要かという曖昧さの上でリバーズ・エッジへ言及した。まったく恐れ入るが、まあそれはいい。
話を戻そう。
「藤山 良夫」、通称「ヨッちゃん」。
体が大きくて、知的障害を持っていて、言語障害っぽい喋り方で、ジャージ姿で、チンポがデッカそうだ。 粗暴ではないが、力は強い。
「フランケン・タイプ」、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載されたQuickJapan3号の表紙は、故・藤子不二雄A「魔太郎がくる!!」を手に持った小山田圭吾だ。同じく藤子不二雄Aによる「怪物くん」からフランケンを引けば、なるほど似ている。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」において沢田(仮)は強烈なキャラクター性を伴い描かれ、長谷川(仮)についての描写と混じり合いながら「沢田(仮)」という先入観としてより強く印象付けられる。
私は基本的に差別的な人間だと言えるだろう。そういう自覚は確かにある。 こういう先入観を持って沢田(仮)という人物を見ていることこそがその証左だ。 そしてそれは「年賀状」にある「(『明けまして』の)たどたどしい筆跡」が沢田(仮)によるものだ、と、勝手に思い込む事と何が違うのだろうか。 言語障害っぽい口調でしゃべるから、体が大きくて乱暴なところがあるから、あの文字を「らしいな」と思い込んでしまうのだろう。 まさに差別的だ。そして、その自覚が無いままに「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を友情だのフラットな視点だのとほざく意味を考えたことはあるだろうか。
そもそも
「沢田っていう奴がいて。こいつはかなりエポック・メーキングな男で、転校してきたんですよ、小学校二年生ぐらいのときに。それはもう、学校中に衝撃が走って(笑)。だって、転校してきて自己紹介とかするじゃないですか、もういきなり(言語障害っぽい口調で)『サワダです』とか言ってさ、『うわ、すごい!』ってなるじゃないですか。(略)」
「僕とこいつはクラスは違ったんですけど、小学校五年ぐらいの時に、クラブが一緒になったんですよ。(略)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 055-056p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
クラスが違うのに小山田圭吾は沢田(仮)の自己紹介(「サワダです」)をどこで聴いたのか。 全校集会や朝礼といったクラスを横断した場での自己紹介があったのだろうか、小学二年生の転入にしては大きな舞台だ。それともそれは和光ならではという話なのだろうか。 そしてそもそも小学二年の時に聴いた誰か(沢田(仮))の自己紹介をどれほど覚えているものだろうか。 どうも不自然だ。
当時の和光
「和光小学校における障害児と通常の子どもの「共同教育」実践の検証 : 卒業生への聞き取り調査による共同教育の評価を中心に」という論文と言っていいのか、和光学園の共同教育に関する文章がある。 和光に近いところによると思われるこれは、共同教育の特に実践初期を検証するという意図のもと書かれたようだ。 複数の卒業生へ聞き取りを行い、それを総括するという構成のもので、卒業できなかった生徒へこそ聞き取りを行うべきである点、そして結論ありきなのではと疑義の余地を残す総括など問題も見られるが、これにはまさに当事者の証言が記録されている。
(1)対象者:Eさん,32歳女性。和光幼稚園・和光小学校・和光中学校卒業。その後私立の高校へ進学。現在は,民間の福祉作業所においてクッキーやパウンドケーキの製造・販売の仕事。ダウン症の障害がある。愛の手帳4度。Eさん父親・母親もインタビュー調査に応じてくださった。文中のFは父親,Mは母親の発言である。
(2)調査日時:2003年12月27日(土)午後2時~6時
(中略)
高校の学力的レベルが和光とは全く違い,学力には自信のない生徒が多い。だから雰囲気的にも和光とはまったく違い,障害のある子の問題よりも普通の子どもの方が問題を抱えているような学校だった。本人も和光に入りたかったのだが,偏差値的に無理で諦めざるを得なかった。
(中略)
教室の黒板に明日の持ち物が書いてあるのですが,みんな書かずに帰ってしまうのですが,娘は丁寧に遅くまで残って書いてくるのです。そうすると友達から「明日の持ち物はなんだっけ?」とか電話がかかってきてね。のろいけど,確実にやるところが評価されてきたのですね。でも高学年になるとそれだけではやっていけないことになって,中学でも厳しくなって,和光高校へは点数が足りなくて進学できなかったのですけど。そこで丸木校長が,レベル的には低いけれど普通の高校を紹介してくれて,その高校へ一緒に行って紹介してくれたのです。周りの子どもにもいい影響を及ぼしているということで押してくださって。
--- 和光小学校における障害児と通常の子どもの「共同教育」実践の検証 : 卒業生への聞き取り調査による共同教育の評価を中心に 279-280p
Eさんは2003年の聞き取り時32歳、1971年生まれとして幼稚園は4歳(通常満3歳からだが特例として)からということは1975年の入園ということになる。時期的には和光が共同教育を指向したその極めて初期に当たる。 小学2年生の沢田(仮)の転入とほぼ同時期の入園だろう。 まず注目するべきは、(少なくとも幼稚園・小学校が)平行して、共同教育のもと生徒の受け入れを図っていたということだろう。各学年それぞれに受け入れていたと考えるのが妥当だ。 次に注目するべきは、和光高校への進学において明確に学力が求められている点だ。
沢田(仮)が高校進学を迎えるまでの6年の間、高校進学の基準として学力を求めるという指針は沢田(仮)よりも上の学年における経験をもとに充分に検討されていた可能性が大きい。 そしてその指針が実効性を伴っていたか、長谷川(仮)、村田(仮)、渋カジ、沢田(仮)、それぞれ不明ではあるが、少なくともEさんは学力を理由として和光高校への進学を断念している。
太鼓クラブの特異性
沢田(仮)は和光高校へ進学する学力を持ち、留年すること無く卒業した。 しかし太鼓クラブにおいては「実験の対象」となってしまっていた。
それで太鼓クラブに入ったんですけど、するとなぜか沢田が太鼓クラブにいたんですよ(笑)。本格的な付き合いはそれからなんですけど、太鼓クラブって、もう人数五人ぐらいしかいないんですよ、学年で。野球部とかサッカー部とかがやっぱ人気で、そういうのは先生がついて指導とかするんだけど、太鼓クラブって五人しかいないから、先生とか手が回らないからさ、『五人で勝手にやってくれ』っていう感じになっちゃって。それで音楽室の横にある狭い教室においやられて、そこで二時間、五人で過ごさなきゃならなかった。五人でいても、太鼓なんか叩きゃしなくって、ただずっと遊んでるだけなんだけど。そういう時に五人の中に一人沢田っていうのがいると、やっぱりかなり実験の対象になっちゃうんですよね」
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 056-057p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
これは局所的なダンピングとでも言うべき事例ではないだろうか。そして学園側にとっては盲点と言ってもいいだろう。 しかし裏を返せばある事が見えてくる。 「教師がいなくとも問題は起こらないだろう」と思われていたのではないか、ということだ。
「小学校時代の小山田くんがいたから先生も安心したのだろう。小山田くんえらい!」 そう思った読者が仮にいるとすれば、私から「お前の頭にはクソ以外詰まってないのか?」という定型句を送らせていただこう。そもそも太鼓クラブのくせに太鼓すら叩きゃしなかった小山田圭吾に何を期待しているのか。
ウチの学校って、音楽の時間に民族舞踊みたいなやつとか、『サンサ踊り』とか、何かそういう凄い難しい踊りを取り入れてて。僕、踊り踊るのがヤだったの、すごく。それで踊らなくていいようにするには、太鼓叩くしかなかったの。クラスで三人とか四人ぐらいしか太鼓叩く奴はいなくて、後は全員、踊らなきゃいけないってやつで。
---「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 056p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
ちなみに私は、沢田(仮)が明確な意図を持った上で太鼓クラブを選んだと考えている。というよりも、太鼓クラブを選択する理由は、踊りたくないからという消極的理由以外存在しないと断言してもいいだろう。学園生活を有意義に過ごすための小山田圭吾からの豆知識だ。漢字に対する博識と、卒業後は保健所の書道や陶芸の教室へ通っているという選択の渋さ、卒業時に「ボランティアをやりたい」と語り「おまえ、ボランティアされる側だろ」と無下に扱われた沢田(仮)がサンサ踊りとやらを選択するに甘んじるとはどうも考えづらい。
ちなみに4月現在、「2022ミスさんさ踊り」の一般公募が行われているようだ。
5月14日(土) 「プラザおでって」で行われた2次選考会の結果、以下の 5名の方々が今年度の「ミスさんさ踊り」に選ばれました!
--- 「2022ミスさんさ踊り | 楽しむ|盛岡さんさ踊り 公式ホームページ」
…太鼓、叩いてるわな。
「魔太郎が来る!!」の意味
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」が掲載されたQuickJapan3号の表紙で小山田圭吾は「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」第5巻を構えている。
この「魔太郎が来る!!」に込められた意味とは何なのか。
自身が如何に「魔太郎が来る!!」が好きで、如何に熱烈なファンであるかという事を示すのにふさわしいのはむしろ、コーネリアスの惑星見学にて藤子不二雄Aのサインをもらった「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」第12巻だろう。
藤子不二雄Aは本作について『自分がいじめられっ子だったこともあるのですが、いじめられっ子が実は凄く強くて、やられた相手に大逆襲するような作品なら面白いだろうと思ったのが本作の出発点です』と語っているように、全国のいじめられっ子のうっぷんを代弁し、それを豪快に晴らしていくカタルシスに満ちた作品である。
--- 魔太郎がくる!! - Wikipedia
いつかこの記事によっていじめっ子小山田圭吾は… という意味を含めたかったとしても、藤子不二雄Aのその思想が背景にあることを強調するためにもやはり12巻がふさわしいはずだ。
12巻ではなくあえての5巻、その真意はどこにあるのか。
ところで「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」第5巻には、「恐怖!!応援ダイコ」という話が収録されている(魔太郎がくる!! - Wikipedia)。
それを当たってみよう。
「恐怖!! 応援ダイコ」
「魔太郎が来る!!」の単行本は出版社や年代ごとにいくつかバリエーションが存在する。 問題となる「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」で小山田圭吾が構えていたものは、「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」の第5巻だ。 私が所有する単行本は「藤子不二雄Aランド 新編集 魔太郎が来る!!」、残念ながら「藤子不二雄ランド 新編集 魔太郎が来る!!」ではない。 藤子不二雄ランド版と藤子不二雄Aランド版が同じかと問われれば、描写の自粛などはあるかも知れないが、大筋は違わないだろうというところだ。 Wikiではうらみの61番となっているが恐らくは単行本収録時の掲載順の問題だろう。
「恐怖!! 応援ダイコ」、内容を追いかけてみよう。
話は、応援団が駅のホームにて応援団長を出迎えるというシーンから始まる。
不幸にも魔太郎が太鼓に躓き、間一髪の事体となり、応援団員はその責を問われ粛清される。
それを根に持った応援団員は魔太郎を探し出し報復する。
さらにその復讐として魔太郎は、応援団の太鼓を程よく破壊し、簡易な修繕を施す。
その太鼓を使用すれば当然、簡易な修繕であるため再び壊れるのだが、応援団員がその場で壊したようにしか見えず、応援団員は再び粛清される。
そして、小山田圭吾は…、太鼓クラブに在籍していた。
…そういう事だろうか。
小山田圭吾、恐ろしい子…!と例の画像を貼りたくなるがあれはネットミームの一種と言っていいだろう、実際は月影千草のセリフだ。
太鼓クラブ路線で話を進めたいところだが、(残念ながら)「恐怖!! 応援ダイコ」が掲載されたのは昭和48年(1973年)だ。 昭和56年(1981年)の時点で小山田圭吾は小学6年生であり、考えるまでもなく自ずと答えは限られて来る。
では単行本か、発刊年を当たってみよう。
単行本
藤子不二雄ランド「新編集 魔太郎がくる!!」全14巻、中央公論社、1987年-1988年
(中略)
藤子不二雄Aランド「新編集 魔太郎がくる!!」全14巻、ブッキング、2004年-2005年
--- 魔太郎がくる!! - Wikipedia
このどちらも小山田圭吾が太鼓クラブに在籍していたと思われる1981年近辺から外れる。
【今月のピックアップ】盛岡さんさ踊り | 取り組み紹介 | beyond2020プログラムより
つまりは、そんな深い意味などはなく、さんさ踊りでの太鼓と、この応援団員が抱えた太鼓、どこか似ているねという事を言いたいのだろう。 いい加減、陰謀論に片脚を突っ込んだような記事ばかりを書いていて、うんざりしていたところだったが、今回はそんなこともなく朗らかに終われそうで安心している。
チャンピオンコミックス「魔太郎がくる!!」全13巻、秋田書店、1973年-1975年
--- 魔太郎がくる!! - Wikipedia
…ん?
作られた「沢田(仮)」
以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。残酷だけど、やっぱり笑っちゃう。まだまだ興味は尽きない。
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 064p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
ここで疑問が生じる。一体、何を笑っているのだろうかという点だ。
いじめそのもの、沢田(仮)を段ボール箱に詰めて黒板消しで毒ガス攻撃をした事や、村田(仮)をロッカーに詰めてみんなでガンガン蹴飛ばした事を笑っているのだろうか。 それとも、沢田(仮)が転校初日にウンコしたり週一でウンコ漏らしたりチンポ丸出しでウロウロしたりしていた事や、村田(仮)が頭をコリコリ掻きつつ髪を抜いて10円ハゲみたくなっちゃってルックス的に凄かった事を笑っているのだろうか。 あるいは、転校初日にウンコしたり週一でウンコ漏らしたりチンポ丸出しでウロウロしたりしていた沢田(仮)を段ボール箱に詰めて黒板消しで毒ガス攻撃をした事や、頭をコリコリ掻きつつ髪を抜いて10円ハゲみたくなっちゃってルックス的に凄かった村田(仮)をロッカーに詰めてみんなでガンガン蹴飛ばした事を笑っているのだろうか。 当然これらは全て「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」に書かれている内容だ。
そもそも「残酷」とは、どういう意味だろうか。 沢田(仮)や村田(仮)のような「かわいそうな(とされる)人」が「いじめられた」から「残酷」だという意味なのだろうか。
仮に、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」に、長谷川(仮)や渋カジ、そしてウンコだのオナニーだのチンポだのといった描写の一切がなかったとしたらどうだろうか。 淡々といじめの描写が続くだけだろう。村上清の言う安心できる教科書的記事とでも言うべき仕上がりになってしまうのだろうか。しかしそれが商業的には失敗するであろうことは明らかだ。 この「かわいそうな人」への「残酷」という前提は、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」という記事が「商業的に」成立するため必要なものだったと、私は考えている。
それを「誰が求め」、「誰が答えた」のか。
「段ボールの中に閉じ込めることの進化形で、掃除ロッカーの中に入れて、ふたを下にして倒すと出られないんですよ。そいつなんかはすぐ泣くからさ、『アア~!』とか言ってガンガンガンガンとかいってやるの(笑)。そうするとうるさいからさ、みんなでロッカーをガンガン蹴飛ばすんですよ。それはでも、小学校の時の実験精神が生かされてて。密室ものとして。あと黒板消しはやっぱ必需品として。〝毒ガスもの〟として(笑)」
--- 「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」 062p (村上清、『Quick Japan 第3号』1995年 太田出版)
対談という形をなしていない、小山田圭吾の一方的な語りで構成される「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」前半、北尾修一はこれを「打ち合わせ」と表現した。小山田圭吾の発言において繰り返された「として」という表現。そして村田(仮)への「いじめ」においては毒ガス攻撃の具体的描写が無いにも関わらず副題として付けられた「毒ガス攻撃」、そして、QuickJapan3号の目次に踊るハルマゲドン(オウム真理教、地下鉄サリン事件)の文字。その描写がなされた背景を私がどう考えているか、おわかりいただけただろうか。
「商業的な創作物」という私が持ったこの印象は9月の当時も4月の現在も、私の中に強くあり続けている。
その表現
「小山田圭吾2万字インタビュー」(ロッキング・オン・ジャパン)で過剰となった露悪的な印象への対処としての側面が「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」(クイック・ジャパン)にはあったそうだ。 仮に打ち合わせ部分の問題を小山田圭吾自身が自覚していたとすればまさに北尾修一が言うように、小山田圭吾としてはボツになってもらったほうがありがたい。 小山田圭吾自身が「のせられた」「盛りすぎた」と感じていれば尚の事だ。 小山田圭吾自身はあの当時、あの内容を、問題があると認識していなかったのではないだろうか。
後悔と葛藤
和光高校へ進学する学力を持ち漢字を良く知っていて鼻炎の沢田(仮)と、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」においてこれでもかと強烈に描かれた「沢田(仮)」を同一人物と言い切ってもいいのだろうか。
ここまで私は、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」で描かれた「沢田(仮)」と、実際の沢田(仮)は、最早別人と言ってもいいほどなのではないかという話を遠回しにした。 仮にここまで述べた私の考えが、ある程度の真実を言い当てていたとして、ある問題が浮き上がってくる。
「田園調布の沢田(仮)」という強烈なキャラクターは、「田園コロシアムでライブをした沢田研二」から付けられた名前ではないか、ということだ。その数十年後、小山田圭吾は、沢田研二を自らの音楽的原体験として語る。 その尊敬する人物の名をあの内容の中で使ったこと、その後悔と葛藤は如何なるかと「狡知 20 「再びいじめ紀行を読んで 3」 | 敬称略雑記」にて語った。
これは沢田(仮)に対しても当てはまる。 和光高校へ進学する学力を有していた沢田(仮)が、「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」を読み、どう思うだろうか。 小山田圭吾はその声明の中で、友情について語りその葛藤を示した。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」がダウン症がどうのを始め差別的な表現において問題がある事は言うまでもない。 ではウンコ漏らしただのチンポがデッカいだの、名前を伏せていればという話ではない。 沢田(仮)は「沢田(仮)」が自らの事を指している事、そして何が書いてあるのかも明確に把握するだろう。
その表現
といってもこれらは小山田圭吾当人の問題だ。 ただでさえ小山田圭吾を良く思っていない私だ。 これを書いているこの刹那、むしろ渋カジが何をやらかしたのかという点のほうが気になり始めている程度の関心しか持ち合わせていないことは言うまでもない。
「いじめ紀行 小山田圭吾の巻」は小山田圭吾の表現の可能性が高い、そう「表現」だ。
では小山田圭吾は本当に、なんの意味も込めずただひたすらにあの内容を語ったのか。 そして、私にっての小山田圭吾問題とは何だったのか。
次回、最終回「渋カジ先輩を追う」(予定)